バレンタインデー-1
(1)
とある一軒家のキッチンのテーブルには朝食が並び、スーツに着替えた一家の大黒柱が新聞を広げていた。薄手のカーテンからは朝日が差し込んでいるせいか、電気を点けなくとも部屋は明るかった。
「はい、お父さん」
愛娘の声に彼が新聞から目を離すと、めかし込んだ姿の少女がぎこちなくラッピングされた箱を差し出していた。力が入り過ぎて、少し歪んでいる包装。これでは、スーパーマーケットのサービスカウンターに立つ事は出来ないな──と父は頭の隅で考えた。
「何だ、これは」
「もう、嫌だなあ。今日は、バレンタインデーでしょう?」
父親は新聞の日付を確認し、前日までの娘の行動を思い出す。「全く、何をやっているんだか」と自分で呟いていた事も、重ねて思い出したのか苦笑した。
「ああ……、チョコレートか。有難う」
「あらあら、先に渡されちゃったわね」
洗濯機を作動させて来た妻が笑いながら、テーブルに近付く。ドアを隔てた先の廊下の奥から、静かに機械音が反響していた。
「冷蔵庫にでも入れておいてくれ」
「はいはい」
手渡された箱をそのまま家内に渡して、父親は再び新聞に目を向けた。テーブルに付された椅子を引き、座る音が二つ。そして、少女の「いただきまあす」という間延びした声が響いた。毎朝、変わらぬ情景である。
カチャカチャと食器同士が当たる音に集中力も切れたか、父も箸を手に取った。すると、それを見計らった様に娘が口を開く。
「お父さんって、若い頃にモテたの?」
「んん?」
おや、ませた娘だ──と少女に目を向ける父親。しかし、返答したのは母だった。
「お父さんがモテたわけないじゃない。モテたなら、何で三十路まで独り身だったのか説明が付かないじゃないの」
「はは、手厳しいな」
笑いながらも、大黒柱は懐かしい記憶に目を伏せた。
(2)
男は大学を卒業後、某有名人の邸宅を設計した事により、建築士として順調に社会的地位を上げていた。そして、今、大学生の頃に同サークルに所属していた女の要求に辟易する。
「だから、チョコレートが欲しいって言ってるのよ手作りで。良いじゃない、カカオから作れって言ってるわけじゃないんだから」
「は? バレンタインってのは、女が男にチョコレートをやる日だろ」
女は男のマンションの近くにあるコンビニエンスストアから買ってきたと思われる、大量の板チョコが入ったビニル袋を目の前に突き付けた。
「欲しいのよ」
その手を繋いだ事も無ければ、キスした事も無ければ、セックスをした事も無い。何故、その様な女にチョコレートを作ってやらねばならない──と男は考える。
「作ってくれなきゃ、アンタの部屋を目茶苦茶にしてやるわよ」
「………」
潔癖症の気がある彼を動かす言葉として、それは最適だったとしか言い様がなかった。ずかずかと我が物顔で部屋に踏み込む彼女に溜息を吐きながら、男はビニル袋を渋々と受け取る。