カコミライ (3)狡い兄-1
母からあの部屋に遣いを頼まれたのは、瞼の腫れがとうに引いた頃だった。
あれから海からの連絡はない。そもそも、私からしばらく連絡しないでと告げたのだから当たり前ではあるけれど。
あの夜、海を追い出すように帰した後、声を上げてわんわんと泣いた。まるで泣き叫ぶことでしか現実に抵抗する術を知らない子供みたいに泣くしかなかった。
散々泣き喚いた後、真っ赤に腫れた目を見て、不細工だなって笑って情けなくてまた涙が零れた。
今もまだ思い出すだけで、目頭が熱くなる。あの時も散々泣いたけれど、涙はなかなか枯れないらしい。
「こんばんはー」
仕事帰りに用事を済ませていると、呼び鈴が鳴った。同時に聞こえた訪問を告げる声に、思わず怪訝な顔をしてしまう。
海以外にこの部屋を訪ねてくるのは、新聞勧誘か押し売りのセールスマンくらいしかいないのに。
デジタル時計に視線を向けると、表示された数字はもう日付が変わる間際。こんな深夜の時間帯にその類が来る筈がない。
「高科美嘉ですー」
うそ。
叫びたい衝動を、手で口を抑えることで必死に飲み込む。
耳に届いた声は、若干口調が違い扉越しでくぐもっていたものの、一週間前に聴いたばかり。紛れもなく美嘉さんのものだった。
「開けてよぅ」
息を潜めながら状況を整理するも、間延びした呼び掛けが思考を乱す。
海がこの部屋で会っていることを話した?
湧いた疑問を否定する。『全部は知らない、そういう関係の子がいる』海が酔っ払って話したのはそれだけ。あの時確かに美嘉さんはそう言っていた。
それに、海にはここが私の部屋ではなく、暮らしてもいないことは伝えている。確か知人の部屋だとかそんな風に説明していた。
ならば、と思う。ならば余計に分からない。
未だ纏まらない思考を余所に、美嘉さんの呼び掛けは続いている。
「いるんでしょー。電気ついてるもーん」
(酔ってる……?)
明らかに美嘉さんの様子は前回会った時と違うけれど、今はそんなことに気を回している余裕はない。まずは目の前の状況をどうにかしなければいけない。
けれど、どうすればいい?なんて答えればいい?
この部屋に私がいる理由。問い詰められたら、私はなんと答えるのか。あの瞳に射竦められたら、上手く誤魔化せる自信はない。
美嘉さんは、今どんな表情でこの部屋の玄関を眺めているのだろうか。その姿を想像して、不意にあることに気が付いた。
意味もなく部屋を彷徨いていた右足を家具にぶつけたけれど、痛みはあまり感じなかった。痛覚さえも鈍くなるくらい、私は焦っているのだ。
―――だって、表札外してない。