忘れること-3
「がっかりしたよ。お前、案外薄情なんだなってさ。お前と先輩の関係って、ちょっと変わってたけどさ。それでも俺は二人の関係が良いもんだと思ってたよ」
僕はかつて先輩がそうしたように煙草を吹かした。ふつふつとわき上がる友人に対する怒りをはっきりと認識しながら、僕は確かに混乱していた。何故僕が彼に怒りを持ち始めているか。それさえもわからなくって悲しかった。
「じゃあ僕が今この場で泣き叫んだらお前は満足なのかよ。なんでだよ。なんでお前に僕が悲しむのを強要されないといけないんだ?意味がわからないよ。先輩は確かに死んだよ。死んだんだ。あの綺麗な髪の毛や、煙草をくわえる柔らかな唇なんかは、ただの灰になってしまったんだよ」
僕は訳もわからず叫んでいた。そこにいる居酒屋の客たちは不思議そうに僕ら二人を見ていた。
「先輩が死んだと聞いたとき、僕は全く別のことを考えていたんだ。先輩と僕の間にある確実な時間の距離について、もんもんと答えもでないのに考えていたりしてた。先輩と僕の間にある二年という絶対性を信じて疑わなかった。僕が年を取れば先輩も年をとって、先輩が年をとれば僕も同じだけ年をとるもんだと思ってたんだ。それがいきなり失われたんだぞ。悲しまない訳がない。
先輩が死んでからも僕はだんだんと年を取るんだ。でも先輩はこれから先、永遠に22歳のままだ。じゃあ僕はこれからずっと、彼女と僕の距離について考え続けなけりゃならないのかよ。悲しいに決まってるさ!なにを失ったより辛いに決まってる。けれどそんなの続きっこないんだよ。先輩はいっていたんだ。その感情が薄れて行く事は喜ばしい事だって。今ならその意味が解る。今になってやっと、解るんだ」
僕は涙を流していた。いつかみたいに、勝手に僕の意思とは関係なく流れるその涙は、酷くあたたかだった。
「先輩は知っていたんだ。その人の許容量を超える感情のエネルギーが暴発しようとしているとき、人はきっと防衛本能的に、その感情を忘れようとするんだ。そのエネルギーを行使することはとても大変なことだし、大人になってしまった僕らの精神を、もしくは大きく変形させてしまうかも知れないから。無意識のうちにそれを押さえようとする。でも幼い頃の人は、溢れ出る感情を出すだけだして消化できていたから。それを出し尽くしても、巧い事エネルギーのサイクルを回すことができていたから。
僕にはもうそれはできないんだよ。上手に感情を表すことができないんだ。時間とともに、先輩との距離を縮めるたびに、僕は不器用に、固く意固地になっていくんだ。でもそれは間違いだけでもないんだ。ある意味では、それも上手に感情をコントロールしてるってことだから」
「だから、お前は表面的には先輩が死んだ悲しみは出さなかったってことか?」
僕は、何も言えなかった。僕が先輩にした質問に答えが無かったのと同じ様に、何も言えなかった。
「でも、それは。そっちの方が、俺は悲しいと思うけどな。出したいときに出せない感情なんて−−」
「それはだから、喜ばしい事なんだよ」
僕は大きく煙草の煙を吸い込んだ。先輩とのキスの味がした。
「感情が表に素直に出せない事が、喜ばしい事なのかよ」
◇
僕は夜道を歩いていた。真っ暗な夜道だった。本当の闇だった。きっと光が射さない場所なんだろう。僕はそんな暗闇が、優しいと思った。
僕は先輩について考えていた。灰になってしまった先輩について考えて、酷く寒々しい気持ちになったものだった。こうしている間にも、僕は昨日もっていた何かを忘れて行く。それは大事なものだったのだろうか。それともどうでもいいものだったのだろうか。取り戻せない記憶を思って、僕は辛い気持ちになった。時間だけが変わらずに進んでいた。