「先生、原稿お願いします!」-3
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「そんなこと言うのよ。とんでもないエロ親父だわ」
由希は憤慨した様子で、そう言った。
「やってみても面白かったりして…」
ニヤニヤ笑いながら敦子が答える。同期で入社して、女性雑誌の編集部に入った彼女とは、気の合う友達だ。
「もう…、他人事だと思って!」
膨れっ面で睨む由希を見て、敦子が噴き出す。つられて由希も笑い出した。
「ところで、最近、彼との仲はどうなってるの?」
「うん、うまくいってるけど…」
そう答える由希の表情がパッとしない。銀行に就職した和彦
とは、大学時代からの恋人同士だった。社会に出てからも交際は続き、最近では結婚も意識している。
しかし、二人の仲はキスから先に進まないのだ。由希のことを大切にしてくれていると思えばそうなのだが、何か物足りない。性的な面だけでなく、人間関係全般について淡泊な感じがして、思わず「私のことに関心がないのっ!」と詰め寄りたくなるのだ。
「彼って、いかにも『草食系』って感じだもんね…」
和彦とも面識のある敦子が、そう呟いた。
「そうね…」
相槌を打つ由希の脳裏に浮かぶ和彦の顔が、どことなく草食動物のそれと重なった。
「それで…、手ぶらで帰って来たのか?」
編集長がガッカリした口調で言った。裸になってでも、原稿を取って来いと言わんばかりの口ぶりだ。
「まあまあ、編集長。渡瀬先生が一筋縄ではいかないのは、編集長もご存じでしょう」
横から助け舟を出したのは、生駒というベテランの編集者だ。
「それに、書けなくなったっていう先生の弁も、あながち嘘じゃないかも知れませんよ」
生駒がそう言った。渡瀬の最近の作品は、明らかに質が落ちていると言う。作品が発表されるごとに拙劣になっていくような気がすると言うのだ。
「この前、山村が持って帰った原稿も、粘りに粘ったあげく、机の奥から出して来たと言うんですが、昔書いた習作のようなんです。本当に書けなくなっているのかも知れませんよ」
「まあ、いいか。しょせん、ヒヨッコ編集者には重荷だったんだ」
ため息まじりに言う編集長の言い方に、カチンと来た由希は、憤然と立ち上がった。
「いいえ、明日もう一度行って来ます。何が何でも原稿をもらってきます」
「昔書いた習作でも結構ですからっ!」
そう言って土下座する由希に、渡瀬は思わず苦笑する。
「そんなこと、よく作家本人に向かって言うね」
そう言われて、由希はハッとした表情になり、頭を下げて謝った。
「す、すみません…」
「しかし、やっぱり出版社の目は騙せなかったようだね。」
渡瀬は寂しそうに笑うと、机の中から原稿の束を取り出した。今は珍しい手書きの原稿だった。
「本当に、これが最後の原稿だ。もう何も残っていない」
「ありがとうございます。」
「ただ、これで作家は廃業だ。渡瀬遼太郎最後の作品だと編集長に伝えておいてください。」
そう言う渡瀬の表情を見て、由希はとても罪深いことをしているのではないかという罪悪感に苛まれた。編集部に帰る電車の中でも、由希の頭からその表情が消えることはなかった。
「あっ!」
電車を降り、ホームを歩いていた由希はハッとした表情で立ち止まった。電車に乗る時にはふさがっていた左手が開いている。左手に持っていたものは…。由希の顔から血の気が引いていく。
「どうしよう!原稿…」
慌てて振り返った時、電車は既に駅から遠く離れていた。
すぐに駅員室に駆け込み、あちこちに連絡を取ってもらったものの、結局、原稿を入れた紙袋は出て来なかった。
「申し訳ありませんっ!大切な原稿をなくしてしまって…」
「構わないよ、どうせ、お蔵入りさせるつもりの習作だ。発表しない方が、これまでのファンをガッカリさせなくていいかもしれない」
渡瀬は優しく笑って言った。
「でも…、本当に申し訳なくて…」
由希は涙ぐんでいる。編集長にどう説明しようという悩みもあったが、それより何より、渡瀬に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「本当に、もういいんだよ」
渡瀬は由希を慰めるように言った。ふと、由希の胸の奥で何かがパチンとはじける。
「…もし、よかったら、私、その…」
言いながら、由希の決意ははっきりとした形になった。
「先生が原稿を書いていただけるなら…、ここで裸になるぐらいなら…」