多分、救いのない話。-8--9
「――あなた」
まるで、砂糖菓子のような、恋に恋する少女のような、甘い甘い甘いとろけるような声なのに。
《怖いお母さん》の囁きよりずっとずっとずっと、背筋が凍り怖気が走る。
母はくるり、と慈愛を振り返り、
「ガァ!!」
腹を蹴られた「ぐぉっ」腹を抱えうずくまるとすねを砕く勢いで踏みつけられ「ぎゃっ!」こめかみをヒールの踵で打たれ「うぅ」肩を蹴られて無理矢理仰向けにされ
「グァっ!!……ぐ…」
喉を、ヒールの爪先で塞がれた。
息が出来な、くる、いたいあたま、うでうごかな、い、しぬかな
死を予感した時、爪先が僅かに離れた。でもまだ呼吸が出来るようになっただけで、離してはくれない。その僅かな距離感は、あまりに残酷だった。それでも慈愛は母が与えた酸素を貪る。
「慈愛だったのね、この人を隠していたのは」
否定も肯定も母は求めていなかった。ヒールは喉から心臓の上に乗せられる。圧迫され、踵をねじ込まれる。ふふっという吐息に近い笑声が、やけに耳に近い。
「……ああ、うん。大体分かるわ、慈愛が何故この人を独占してたか。いえ寧ろ……何故今になって私に教えたの? 聞かせてくれる?」
母は明らかに、嬉しそうだった。何故かは分からないけど、とにかく嬉しそうだった。
それは子供を痛めつける行為にではなく、恐らくは――《コレ》との再会のせいで、どうしようもないほど、昂ぶっていたために。
「ねえ、あなたはいつからここにいるの?」
母が《コレ》に声をかける。しかし、
「…………」
《コレ》は答えない。
「? ……あなた、まさか私を忘れた?」
首を横に振る動作。否定。
「私と話したくないの?」
否定も肯定もなし。更に訝しる母は、ある答えに行き着く。
「喋らないんじゃなくて、喋れない? 言葉が話せなくなってるの?」
少し間があり、そして、肯定。
「へぇ」
母は慈愛に水を向けた。
「どうして?」
「――――」
慈愛は沈黙を保つ。恐怖に負けてはならない。
ここで《怖いお母さん》に勝てなければ――全てを失う。
だから、“満たせ”。
私は神栖慈愛。
お母さんの子供。
あの《怖いお母さん》も、私の中に“在る”。
「黙ってたら分からないわよ?」
胸に更に重みが加わり、痛みは激しくなる。だけど、先程のように無様に悲鳴を上げずに、
「ふふっ、……くくっ」
限りなく透明な笑みを、浮かべた。
「…………」
重みの消失。しかし以前につけられた傷も開き、簡単には身体は動かせない。
それでも笑みは消さない。
「……私、お母さんの子供なんです」
「それで?」
「お母さんも、認めてくれますか? 私があなたの子供だと」
母は答えない。焦燥で汗が噴き出す。
それでも、待つ。
そして。
「くすくす……ふふっ」
笑声はどんどん大きくなり、
「あはっ……あはは!! あはははははははっっ!!!!」
鼓膜が破れそうなくらいの大音声となり、《秘密基地》に響いた。