「花、堕ちる―前編―」-2
大店の呉服屋、藍善のひとり娘といえば、界隈で知らぬ者はいないほどだった。
雪のように白く、きめ細かな肌。
瞳は黒々として吸い込まれそうに大きく、小振りの唇は咲初めの桜のようにほんのりと色付いている。
生きているのが不思議なほど。
―それは神がかった美しさだった。
気立てもよく、家族だけでなく店の奉公人にまで気を配るというから、娘の評判はますます鰻登りだ。
殊に娘の父親で藍善の主人、弥兵衛の可愛がり方は並でなく、目に入れても痛くないというほどだった。
娘の名は千世という。
今年十七を迎え、いよいよ匂い立つように美しくなった。
付け文や縁談は後を絶たないが、弥兵衛が手放したがらない。
だが、旗本の木村家から長男、慶一郎の嫁にと話が来たときは、流石の弥兵衛も考え直さざるを得なかった。
いよいよこの時が来たかと、弥兵衛は思った。
先方は大身であるから、一度武家へ養女に出さねばならいが、千世にとってはまたとない良縁だ。
武家の、しかも長男の正妻にと望まれているのだ。
大店とはいえ、商家の娘をよく思わない周囲に、当の慶一郎は、千世でなくば妻など娶るものかという熱の入れようだ。
この目出度い話題に藍善は沸いた。
早くも寿いだ雰囲気で、店自体が浮足立っているようだ。
気の早いお客なんかは、千世に向かって「奥方さま」などと言って冷やかす始末。
藤吉は、店のそのような様子をまるで他人事のように眺めていた。
身寄りのなかった藤吉が、この藍善へ奉公に上がって九年が過ぎた。
藤吉は幼い頃から口数が少なく、大人しい男だった。
しかし優しく、真面目な気性が主人の弥兵衛に気に入られ、実の子どものように可愛がられた。
そんな主の厚情もあって、藤吉は今では手代にまで上り詰めた。
千世とは幼なじみだった。
よく千世とその弟、尋太のお守りをしたものだ。
千世の手を引いて、尋太を背負って―。
二人も大人しい子どもだったが、藤吉によく懐いた。
その千世が嫁ぐという。
見知らぬ人の妻となり、藍善を出て、藤吉と違う人生を歩んでいく―。
何故か、そのようなことが考えつかず、藤吉は戸惑い、同時に胸に鈍い痛みを感じた。
いつかこの様な日がくることは承知していたはずなのに、どこかでそれはまだ先のことと思っていた。
妻になるという千世の姿が想像できず、ざわめく藍善で藤吉は一人取り残されたようだった。