無味『偽』燥-3
『決断』
「失礼ですが、殿は民からどんな風に言われているかご存じですか?」
男はこれまで三代に渡ってこの一族に仕えてきた。だからこそ、まさしくこの動乱の状態にあるこの状況をなんとかしたかった。主役の悪口を言うことになっても……。
しかし、この主君――正確にはこの国全体と対立してしまっている。だが、仲間もいる。今自分が進めようとする日本こそが正しい日本の在り方だと信じていた。だから、主君の説得にやってきたのだ。
「『無能』、だろう?」
男の前に座っていた青年が静かに言葉を発した。二十代後半から三十代という若さにも関わらずその佇まいはまさに将軍そのものであった。
「はい。ですから――」
「わかっている。政権を朝廷へ返還し、江戸城を明け渡せば良いのだろう?」
男は驚愕した。民衆から『無能』と呼ばれ、男本人も失礼ながら全く役に立たないと思っていたからだ。ただのお飾りでなったのではないか、と……。
そんな男の驚きを知ってか知らずか、青年はまた静かに続けた。
「戦いがすでに始まり、血で血を洗う、ような戦いにまでなってきている。民衆の多くが犠牲になっている。起きてしまったことはしょうがないが、これから民衆が犠牲になることは避けたい。ならば、この方法――政権を朝廷へ返還し、江戸城を明け渡す――しかないだろう?」
男はただただ言葉を失っていた。そこまで考えているとは知らなかったからだ。
「どうした? 何を驚いている?」
青年は怪訝そうに言った。
「い、いえ。何でもありません。すぐに手配をします!」
そう男は言うと、慌ただしく部屋を出ていった。
青年は一人になり、思案を巡らしていた。自分のことはなんとを言われてもいい。ただ民を守りたかった。だから、この方法しか無いと思った。でも、本当にこの方法しかないのか……? 他にもっといい方法があるんじゃないか?
でも、日本は変わろうとしている。それを否定するわけにはいかない。しかし、民を守りたい。だから、その方法しかなかった。これが最後の、十五代将軍としての、そして、徳川慶喜としての決断だった。
End