想-white&black-H-4
心臓が嫌な音をたてて早鐘を打ち、膨らむ不安が近づくたびに増大していく。
あと目の前に見える角を曲がればエントランス―――、というところで誰かに腕を掴まれてしまった。
驚いて声もなく振り向くと、そこには固い表情の理人さんがいた。
「り、理人さ……」
「お静かに願います。今楓様の所に出て行かれてはなりません」
密やかな声だったが掴む腕の力は決して弱くはない。
十数メートル離れた所からは穏やかな口調の楓さんとあの人の涼やかな声が聞こえてくる。
会話の内容までは分からないが、時々漏れ聞こえる笑い声が余計に苦しかった。
(私といる時はあんな優しげじゃない……)
「理人さん、あの方は……?」
掴まれた腕を力なく下げたまま顔を俯かせて尋ねると、理人さんはそっと二人の陰になる位置に移動した。
私に見せないようにしてくれたのか、あちらに私の存在が知られないようにした配慮なのかは分からないが。
「あちらの女性は花菱銀行の頭取のお嬢様でいらっしゃいます。旦那様と頭取は旧知の仲でもありますし、楓様にとってお付き合いしていて損のある相手ではございません。楓様の婚約者候補のお一人でもあります」
「婚約者、候補……」
淡々と静かに教えてくれる事実に心はますます重苦しくなっていった。
ああ、そうか。
だから楓さんはあんなに優しく大事そうに彼女の側にいたのか。
将来、自分の妻になるかもしれない人だから……。
何なんだろう、この打ちのめされたような気分は。
楓さんがいつか後ろ盾のある家柄の人と結婚することは分かっていたはずなのに。
その間、後腐れなく遊ぶための愛人みたいなものなんだと理人さんからも言われていたはずだった。
楓さんにだって昨日言われたじゃないか。
お前は『飼われてる』のだと……。
立場をわきまえなければいけなかったのは私なんだ。
地位も財産も何もない、楓さんのためにできることは身体を差し出すことだけ。
それを楓さんも分かっていたのだ。
そしていつの間にか彼のために何かをしたい、という欲望があったことに驚き虚しさを募らせた。
「花音様?」
何も言わず俯いたままの私に理人さんが声をかける。
その声に顔を向けることができなかった私は理人さんと、もうすでにそこにはいない二人に背を向けた。
「……部屋に戻ってますね。迷惑かけてしまってすみませんでした」
ようやく絞り出した声は小刻みに震えて、それ以上口を開けば涙がこぼれてしまいそうになっていた。
「部屋までお送りしましょう」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」
理人さんの申し出を断って、重い身体を引きずるようにしながら部屋まで戻った。