男性には向かない職業-9
「私たちはさ、普通に街を歩いていても、人間だって認識される。世界中を歩けば、世界中の人から人間だって思われる。でも、この子は違うんだよね。人間だったってわかってやれるのって、産み落とした母親と、私たちしかいないんだ」
「……はい」
「私は、こういう子を人間として送り出してやりたい。この子を本当にわかってあげられるのは私たちだけしか、いないんだからさ」
「…………はい」
リノリウム張りの床を鳴らしながら、ゆっくりテーブルへと近寄る。
テーブルの回りにいる助産師達は、皆が同じように暗い表情を浮かべ、休憩室から出て来た私たちに視線を注いだ。
重たい空気が肌に刺さる。皆は無言で、けど考えていることが同じなんだってわかった。
箱の中には脱脂綿と白い布にくるまれた、もう白い赤ちゃんが瞳をぎゅっと瞑って眠っていた。
一瞬だけど、オギャーって泣いたんだよね。
精一杯生きようとしたんだよね。
よくがんばったね。……偉いよ。
愛しく思い手を伸ばしたけど、先輩に止められた。
小首を傾げると先輩は「移るよ」と眉をひそめて言った。
「感染症ですか? 洗ってないんですか?」
「ちゃんと洗ってるよ。移るのは情だよ。これからやらなきゃいけない事考えると、やめておいた方がいい」
――廃棄、しなきゃいけないんだよね。
納得はできないけど、苦痛で歪んだ先輩の顔を見ていたら、自然と手が引っ込んだ。
「黙祷」
先輩が号令を掛けると、皆が一斉に俯いた。
私も目を瞑り、両手を胸の前で合わせる。
暗闇の中、この子が生まれてきた瞬間が、克明に蘇る。
手の中に収まる程小さな体躯を力一杯振るわせた赤ちゃんは、まだ私の耳元で泣き続けている。
「……ひぐっ……ひぐっ……」
ずるずると鼻水をすする私の音が大きく響く。
「……泣くな」と黙祷を終えた先輩が、私の頭にぽんと手を乗せた。
私はまだまだ助産師としては未熟で、何も知らない。
けど、一つだけわかったことがある。
助産師という職業は、命が産れる瞬間だけに立ち会うわけじゃない。
再び目を開いてみても、赤ちゃんがくしゃっと顔を歪めて声を上げはしなかった。
木箱の横には届け出用紙が無造作に置かれていた。
死亡届けと、廃棄処理届け。
二つとも人間だった物の証明書。
それを意識的に視野から外す。
引き継ぎしている間、何度も白い木箱に入った赤ちゃんを見たけど、最後まで動くことはなかった。
夜勤のナースと入れ替わる時に、先輩が白い木箱を運び出した。私も付いていこうとしたけど、先輩は無言で首を横へ振った。
休憩室に戻り、開けたまま放置されていた缶ビールを一気に胃に流し込んだ。
ビールは炭酸が抜けて、温くなっていた。
私服に着替えた後、先輩に飲みに行かないかと誘われたのでついて行くことにした。
前に来たことのある、あの焼鳥屋さん。ビールの一杯目を頼むと、私は前から気になっていたことを思い出した。
「先輩って、どうして師長って呼ばれるのが嫌いなんですか?」
「ああ? それは――」彼女がおしぼりで軽く口元を拭う。「私達の職場にはさ、母親の痛みを分かってあげられる奴がいればいい、少しでも多く産まれる命の手助けを出来ればいいと思ってる。それには、上も下も関係ない。けど、師長って職に就くと色んなものがくっついてくる。助産師として正しくても、師長として間違っている、だからもう少し考えて行動しろってね。
そこんとこ、男性には分からないんだよ。
私はね、一人の助産師として、何にも捕らわれずにお産の手伝いをしたいんだ。だから、師長って肩書きは好きじゃない」
立場上のしがらみがどういうものが、正直私にはわからない。でも、母親の痛みを分かってあげられて、多くの出産を助けてあげたいという気持ちは、十分に理解できた。
痛みを真に理解する。
それが、助産師が男性には向かない職業だっていう理由なんですね? 先輩。
ジョッキが運ばれ、先輩と私は空元気を出してグラスをぶつける。
先輩の瞳には相変わらず色がなく、死んだ目をしていた。今日の出来事は先輩の中で相等こたえたようだ。
う〜ん。今夜の先輩は前よりも荒れるだろうなぁ……。
彼女が酔って潰れたら、額に『魂』と書いてみよう。
そうすれば、再び彼女の目に魂が戻ってくるかもしれない。