『動物園にて』-1
目の前にキリンの顔がある。
キリンが立っている地面は、僕らが立っている場所よりも三メートルほど低い位置にある。すぐそばの売店ではキリンの餌用のニンジンが売られている。キリンと目線を合わせて、餌を直接与えられるようなシステムになっているのだ。
「キリンの首が長いのって、高い所にある葉っぱを食べるためなんでしょ?」
先ほどニンジンを与える時にはビクビクしていたのに、もうキリンの顔の大きさや形に慣れてしまったようだ、理穂はキリンの頬を馴れ馴れしく撫でながら僕にそう問いかける。
「そうなんだろうね」
僕は気の無い返事を送る。
「進化ってすごいね」理穂は嬉しそうに目を見開いて言う。「きっとキリンはずーっと長い時間をかけて首を伸ばしたんだね」
「いや、ちょっと違うかもしれないらしい」僕は目を細めてキリンの顔をじっくりと見て言う。「というのも、首の短いキリンと首の長いキリンの中間の首の長さを持つキリン、つまり進化の途中にあるキリンの化石は未だ見つかったことがないかららしいんだけど。」
「じゃあキリンはどうして首が長くなったの?」
「ある時突然キリンみんなの首がグンと伸びた。とかね」
「そんなことってあるの?」
「あるよ。ウイルス進化説って言ってね。それによると、キリンたちに首が長くなるウイルスが流行って、DNAにこのウイルスが組み込まれちゃって、それ以来キリンが子供を生むとそれはみんな首が長いキリンになったんだ、っていう説。まあ、詳しくは知らないけど」
「へえ。それじゃ、キリンの首が長いのは病気なんだ?」
へえ。のトーンで僕は理穂が少し不満がっていることに気付く。理穂は感嘆詞にとてもストレートに感情をこめるのだ。
「病気っていうか、うん。どうなんだろうね。まあ、それはどんな状態を病気と定義するか、って問題になってくるかな」
僕は曖昧に答える。
「ちょっと残念だな」
「何が?」
「私はキリンの進化っていうのに、ちょっとロマンみたいなのを感じてたんだ。ずーっと強く長く願い続けてれば、それこそ首を伸ばす事だってできるんだってことを、キリンは証明してくれてる気がしてた」
理穂は眉の端を下げて目を細める。その目の雰囲気がキリンのそれと重なっている気がする。
「いや、まあウイルス進化説だって、有力だとは言われてるけど確定ってわけじゃない。何世代もの願いが首を伸ばしていったのかもしれない」
今更僕はフォローを入れる。別に僕は理穂をがっかりさせるためにこんな話をしているわけじゃないのだ。キリンの進化がどんな経緯をたどっていたとしても僕はどっちだっていい。
「ねえ理穂」
僕は理穂に語りかける。
「なに?」
理穂はキリンから目を離して僕に振り返る。理穂の髪が、くるりと回転する理穂の顔の動きに、一瞬遅れてついてくる。肩まで伸びた少しくせのある髪は、空気を含んではらはらと揺れながら回転する。
「どうして突然動物園に来たいなんて思ったの?」
僕はできるだけ特別な意味を含まないようなトーンになるように言う。
「どうして、って。特に理由なんてないよ。なんとなく、動物園にでも行きたいなって思っただけ」
「そっか」
洒落っ気の無い眼鏡の奥にある、いつまでも垢抜けない理穂の目。いつからだろう、その目が語ることの真偽を、僕が見抜けるようになったのは。
僕は別に理穂の恋人だというわけじゃない。
高校三年のころ初めてクラスが一緒になって、偶然同じ大学に行って、仲が良くなって、一緒に遊ぶことが多くなった。以来、特に疎遠になる理由も無いのでずっとその関係を保っている。僕と理穂の関係を既成のカテゴリーに当てはめるのであれば、友人というものが一番近い。
ただ僕には理穂以外にほとんど女友達が居なく、理穂には友人そのものがほとんど居ないということが、僕にとって理穂を、理穂にとって僕を、どこか特別な存在に仕立て上げている。周りから見れば恋人に見えるのかもしれない。でも今のところ、僕と理穂はお互いのことを恋人というくくりにはっきりと規定してはいない。
僕らはキリンの柵を離れて、黒ヒョウの檻とライオンの檻の間を歩く。