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『動物園にて』
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『動物園にて』-5

「私にとって絵を描くことは目的なの。絵を描くことを手段にはしたくない」
理穂は水彩絵の具をチューブからパレットの上にひねり出しながらそう言った。パレットの上で何種もの色が筆によって混ぜ合わされ、新しい一つの色が作られる。その色を作る方法は理穂の頭の中にしかない。新しく作り出された色が、絵筆に乗り移り、カンバスに運ばれる。かおのないねこが創られていく。僕の書いた物語から理穂が想像したかおのないねこのイメージが形になる。まるで魔法を見ているみたいだった。吹き抜ける風のような激しさと麗らかな日差しのような穏やかさ、それに花の匂いのような優しさを含んだ、初春の午後を思わせる魔法だった。
その時僕は、理穂の言ったことがうまく理解できなかった。でも今ではなんとなく解る。
生きることが困難な人間は、生きることが目的になる。生きる力に恵まれている人は、生きることは何かの手段になる。それを反転させれば、理穂の言ったことになる。
「ねえ理穂」
僕は理穂に語りかける。目の前には象が居る。象はその体の大きさに見合わない優しい雰囲気を纏っている。威圧感と言うものが殆ど無い。じっと動かない彼は、知性と意思を持った寡黙な岩みたいに見える。
「何?」
「話してよ」
僕は疑問符を付けないで質問する。
「何を?」
理穂は疑問符を付けて回答する。
「何かをさ。何かあったんだろ? 理穂のことなんか、顔と態度を見てれば大抵のことはわかるよ。何年一緒にいると思ってるんだ?」
象がのっそりと動く。やはり彼は岩ではなく、柔らかな肌と肉を持った生物だ。
理穂はひとつ溜め息をつく。その溜め息に乗せて何を吐き出したのかまでは判断がつかない。大抵のことは解るとはいっても、解らない領域もある。何事にもボーダーラインはある。
「仕事を辞めたの」
理穂は僕の目をしっかりと見据えて言う。僕の後ろから吹いている、ゆるいけどしっかりした風が理穂の前髪を優しくめくり上げる。
「そう」
自分でも意外なほどあっさりとした声が出る。でもその次の言葉が続かない。適切な言葉はなんだろう、と頭の中を検索する。しかし、回線が混み合っているみたいだ。適切な言葉は膨大なデータベースの奥のほうに潜んでいて、僕はそれを見つけることができない。
「何か言わないの?」
理穂が、4割のポジティブな期待と6割のネガティブな懸念をこめたニュアンスで僕の言葉を催促する。ちょっと待ってくれ、回線が混み合っているんだ、と僕は思う。
「これからどうするんだ」
適切な言葉はついに見つからず、僕の口から出たのはそんな月並みな言葉だ。本質に迫らない、ただ、何かを途切れさせないための飛び石としての言葉。
「どうしようかしらね」
追加される飛び石。
象が低い声で鳴く。
象の声に背中を押されるような形で僕らは止めていた足を動かす。沈黙と、動作の停止が重なるとどうしようもなくなる。言葉が出ないのならとりあえず何か動きがあったほうがいい。
歩きながら僕は、理穂が仕事を辞めたことに対して何となくすんなり納得していた。
理穂は大学を卒業してから、小さな企業の事務として働き始めた。一日のうち何件かの電話の応対をし、それから細々とした書類を決まったパターンに従って左から右に移し変える。仕事をしている時間と、暇を持て余している時間、それと上司や同僚の顔色を伺うための雑務をする時間が4:3:3くらいの仕事だ。
ついでに言えば、僕はそれなりに大手と言われている企業の営業として毎日自分をすり減らしている。残業も多い、理不尽な扱いを受けることも茶飯事、でも給料はいい。おかげでたった2年働いただけなのに僕の預金通帳にはちょっとした額が記載されている。使い道の無い大金と言っていいだろう。
僕は自分のことを平凡だと思っているけれど、理穂はそういった平凡さから遠い位置にいる人間だと思う。だから正直に言って、むしろ今まで理穂がそんな平凡でくだらない場所で我慢していられたことが意外だったくらいなのだ。


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