『動物園にて』-4
「ほんとうに?」
「ほんとうに?」
「ほんとうに?」
「ほんとうに?」
男はもうそれにはこたえられませんでした。
かおのないねこは、男を見るのがつらくなって、ベッドからおりました。
へやのすみにある、おおきなかがみに、かおのないねこはじぶんのすがたを見ました。
「きみはかなしいかい?」
かおのないねこはかがみにむかってはなしかけます。
「きみはかなしいかい?」
おなじしつもんがかえってきます。
「きみはかなしくないのかい?」
「きみはかなしくないのかい?」
しつもんはしつもんでしかかえってきませんでした。
しつもんにこたえてくれるともだちは、もういないのです。
かおのないねこは、いつまでもかがみにしつもんしつづけました。
「あの絵本の結末。結局じいさんの人生は幸せだったのかな?幸せじゃなかったのかな?」
理穂は僕に問う。
「さあ、どっちなんだろうね」
「作者はユウ君でしょ」
「理穂も作者のひとりだ。理穂に分からないんだったら僕にも分からないよ」
「ユウ君らしい答えだね」
前のほうから、甲高い声が聞こえる。小学生の集団が居る。遠足なのだろう。みんな黄色い帽子をかぶっていて、みんな同じような顔をしていて、みんな同じような声を出している。彼らは僕にとっては一人ひとり独立した固体ではなく、みんなまとめて、遠足の小学生、という一つの記号でしかない。
「あの絵本の絵を描いていた時ね、すごく楽しかったんだ」
理穂は愛おしそうに黄色い帽子を見つめながら言う。
「大学二年生の夏休みだったっけ」
僕はわざと曖昧に言う。本当はそれを作ろうと理穂が言い出した日の日付とまでちゃんと覚えてる。
高校生の頃に美術部だった理穂は、大学時代にもいつも絵を描いていた。いつも大きなバッグを持ち歩いて、その中にはスケッチブックやペン、その他僕には名前も知らないような絵を描くための道具が無造作に放り込まれていた。そのごちゃっとしたバッグの中身をそのまま拡大したのが理穂の部屋だった。そこは人が暮らすために必要な機能や調和はほとんど無く、その代わりに創作のために必要な道具と、雑然とした予感が満ちていた。部屋の中央に置かれたイーゼルや、床に散らばった絵筆や、壁に付着した何かの塗料、それらが僕に向かって何かを語りかけているようだった。理穂の部屋に居ると、僕まで何かを創れるような気がした。でもそれはやはり、気がしたというだけのことであり、理穂の部屋の中でだけ見られる限定された夢の欠片でしかなかった。その限定された夢の欠片を繋ぎ合わせてなんとか創り上げられたのが『かおのないねこ』であり、唯一の理穂と僕の合作だ。
理穂の描いた絵を見たことはそれまでに何度かあったけど、理穂が絵を描いている過程をずっと見ていたのは、『かおのないねこ』の絵を描いている時が初めてだった。
その姿は僕に衝撃をもたらした。
「どうして美術系の大学に行かなかったんだ?」
と、僕は理穂に聞いた。僕は絵に関しては素人だったけれど、理穂の絵には間違いなく非凡な何かがあったと思う。素人でも分かるほどに。それは才能と言ってしまうことが出来るものだ。それに理穂は絵を描くことが何より好きだった。美術系の大学に通い、然るべき道を然るべきステップを踏んで進みさえすれば、いずれ絵を描くことで生活することだって出来なくはなかったはずだ。