やわらかい光の中で-89
「今は少し忙しいから、大学の頃のようには会えない。オレと会わない時間を千鶴も自由に過ごしていいよ。別れたいわけではない。わかって欲しい。」
直樹はシャイな男だった。口で言えばいい事もなかなか言えず、口数が少なくなることも多かった。その日も、何度も千鶴に自分の気持ちを伝えようとしたに違いない。言えないで、もじもじしている直樹が目に浮んだ。
そして、彼女は快い返信をし、2人の関係は元に戻った。
学生の頃の喧嘩はその時くらいで、2人は殆ど喧嘩をした事がない。直樹は感情を剥き出しにするタイプではなく、何かで千鶴が怒ったとしても、彼が冷静に彼女を説き伏せて終わりだ。
そのうち千鶴も感情を剥き出しにする事は少なくなった。
それから暫くして2人は就職活動に入った。毎年就職難が報道されていたが、今思えば、それほど就職難でもなかった。それでもバブルの頃のように簡単に就職できる時代でもなく、千鶴はなかなか就職が決まらないでいた。彼女は自分が何をしたいのかもよくわからず、ただただその活動に明け暮れた。
一方、院卒の直樹は早々に大手メーカーに就職を決め、2人の忙しさは逆転した。
最終的には、何とか彼女も就職を決めたが、その会社は彼女を満足させるものではなかった。希望の総合商社ではあったが、有名企業ではなかったからだ。それでも彼女が拘っていた総合職での入社だった。
入社2年目の夏、彼女は満足に食事を採る事ができなくなっていた。ストレスで拒食症気味になってしまったのだ。
そして、体を酷使しながらの仕事と夏の暑さに彼女は倒れた。
栄養失調という診断が下された。医者は、ストレスと上手く付き合う方法を見つけるようにと助言した。
2日間の入院の後退院、その次の日には会社に復帰していた。
直樹は可能な限り彼女と供に食事を摂るようになり、彼女の体を案じて、職場近くの会社の寮から千鶴のアパートの近くまで引っ越してきた。そのまま2人は半同棲状態で、お互いの部屋を行き来するようになったが、あまり体調の良くならない千鶴を見兼ねて、彼は彼女に会社を辞める事を勧めた。彼女もなんとなく彼に従い、退社する事にした。
千鶴は派遣社員として働くようになり、2人は同棲を始めた。
その頃から直樹の出張が増え、時には3ヶ月から半年、家に戻らない事もあった。千鶴は特に気に留めていなかったが、今思えば、その頃からだんだん直樹の束縛が激しくなっていったように思う。
そして同棲を始めて1年が過ぎた頃、結婚した方が会社から多く手当てが下りるという理由で、彼女はプロポーズされた。
千鶴はその理由に納得がいかず、彼の部屋を出た。
それでも2人の関係は続いていた。
彼を好きな気持ちに変わりはなかったからだ。
ただ、そのプロポーズの言葉から、なんとなく、彼の愛情を感じられなかったのだ。
同棲中、家賃や光熱費は彼が負担していた上、別に食費を少し受け取っていた。生活に必要な買い物は彼女がする事が多かったからだ。千鶴は平等に払おうと提案したが、その代わり、貯蓄をするように彼に指示された。それでは申し訳ないとも思ったが、彼女は直樹の言葉に甘えた。実際、派遣社員の安月給には嬉しい申し出だったからだ。
しかし、その甘えが一緒に暮らす2人の関係を崩した。
事実上、結婚状態にあり、彼女は完全に彼に養われていた。養われている手前、申し訳ないという気持ちがあり、家事は全て彼女がこなしていた。
そして、なんとなく彼に後ろめたさも感じていたのだ。