やわらかい光の中で-86
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沖縄は彼女が初めて恋人と2人きりで行った旅先だった。相手は、学生の頃から10年間付き合った酒井直樹だ。
初めての沖縄は貧乏旅行で那覇市内の安いビジネスホテルに泊まり、本島をレンタカーで巡った。お互いに初めての沖縄で、東京にない風土と情緒に2人とも感銘を受けた。
それから毎年必ず、2人で沖縄旅行に行くようになり、それは、彼との婚約が解消される前年まで続いた彼女の年中行事だった。
最後に2人で行った沖縄旅行の帰り、幸せの絶頂だった千鶴は直樹にある提案をした。
彼女にはどうしても泊まってみたいリゾートホテルがあったのだ。
そこは本島でも屈指の高級ホテルで、敷地も広く、外国のリゾートホテル並の施設を有していた。ちょっと高価なホテルではあったが、1度、彼女はそこに泊まってみたかったのだ。
結婚する事になっていた2人の新婚旅行は、外国を予定していたが、彼も笑顔で快く頷いてくれた。
「いいよぉ。じゃぁ…次の沖縄はそこにしよう。那覇以外にずっと泊まるのは初めてだな。来年は金もかかるし、忙しくなるな。」
しかし、その「次」は永遠に来ない「次」となり、それ以来、彼女は沖縄に行きたいと思う事はなくなった。
電車から次々に過ぎていく風景を見ていたら、ふと、そのホテルに泊まってみたかった自分を思い出した。
そして、なんとなく、沖縄行きを決めたのだ。
◇
上り電車に乗っていた彼女はそのまま独りで羽田を目指した。
飛行機の予約もホテルの予約もしていなかったが、この計画性のない旅が上手く行くような気がしていた事を千鶴は覚えている。
羽田に着くと夕方の便に空席があった。搭乗まであまり時間がなかったので、取り急ぎ必要な買い物を済ませ、彼女は飛行機に飛び乗った。
空港で買った沖縄のガイドブックに目的のホテルの名前を発見し、那覇に着いてから予約を入れる事にして、暮れゆく空を飛行機の窓から眺めながら、眠りに着いた。
定刻通り那覇に着くと、彼女はすぐにホテルに電話を入れた。1番安い部屋は空いてなかったが、2番目に安い部屋は空いていた。
本当は5日間そこに泊まろうと思っていたのだが、予算の関係で2泊だけの宿泊にした。そのホテルは那覇から少し離れた所にあるので、1泊では疲れを癒すことさえできないと思い、宿泊を2日にした。
ホテルは急な予約にもかかわらず、迎えのシャトルを用意してくれた。しかしホテルから空港までは2時間以上かかる。空港でずっと待つのも時間がもったいない気がしたので、彼女は国際通り沿いのモノレールの駅まで迎えに来てもらう事にした。国際通りなら、早く着いても少し時間を潰せる。田舎の閑散とした場所で待つよりは、その方が不安感も解消できるだろうと思ったのだ。
彼女はトランクを転がしモノレールに飛び乗った。独りでこんなに遠くまで来たのは初めてだった。幼い子供の初めてのお遣いのような期待と不安が混同した感覚が彼女の心を躍らせた。
駅に着くとまだ9時を少し過ぎたところだった。彼女は当てもなくコンビニを探した。ホテルで飲む酒とつまみ、空腹を満たすための食べ物を買おうと思ったのだ。ホテルに着く頃には、レストランのラストオーダーは過ぎているだろうし、レストランで孤独に食事をする勇気もなかった。
コンビニはすぐに見つかった。そこでスナック菓子とビール、泡盛の小瓶と漬物におにぎりを購入し、適当に時間を潰せそうな雑誌を買った。