やわらかい光の中で-78
哲也と初めて会ったのは、彼女の歓迎会の席だった。
主役の彼女の席の斜向かいに座った男は、とても年下とは思えない貫禄でずっしりと座り込み、営業本部長と笑顔で対等に話していた。その男が自分より年下だと知るのはそれから3ヶ月後の事になる。
初めは、冴えない、お世辞にもお洒落とはいえない彼の事を会社の同僚としてしか見ていなかったのだが、ある会社の飲み会で彼がサーファーだと聞いて、なんとなく哲也に興味を持ち始めた。
前に付き合っていた男がサーフィンをしていたからだ。
哲也は、千鶴の前の恋人、内藤慎治とは似ても似つかないボディラインをしていた。慎治が特別体を鍛えていたわけではないと思うが、慎治のシャープな体つきに比べ、哲也は、全体的に中肉中背のわりに、デップリとしたお腹が見た目の年齢を更に上げているような温かみのある体だった。
千鶴はサーフィンをするわけではないが、サーファーは皆、スレンダーな体つきであるイメージがあったので、哲也がサーフィンをしている事が信じられなかったのだ。
「サーフィンするとやたら食欲でちゃッて…終わった後2食でも3食でもいけちゃうんだよね。」
満面の笑みでそう答える哲也を見ていたら、そのお腹がやたらと愛しく感じられた。
それから暫く会社の同僚として2人の距離は縮まるとなく接近してはいったが、会社の同僚の域から超えることはなかった。
そんなある日、退社する事になった同僚の内輪の送別会の帰りのことだった。帰る方向は別だったのだが、何故か彼が千鶴を送っていた。彼女はなぜ彼が自分を送る事になったのか、その細かい経緯(イキサツ)を酒の酔いのため、覚えていない。
大都会の中にひっそりと佇む公園の噴水の前を、彼女は千鳥足で歩いていた。
夜中の噴水は寝静まり、昼間は水を噴出している小さな金属の口が寂しげに外灯に照らされていた。
彼はそんな彼女の後を「危ないから」と言いながらついて歩いた。
蒸し暑い東京の夏の空気の中に一筋の冷たい風を感じた。
静まり返った夜の公園は、心細い外灯の明かりの中で都会の喧騒を忘れさせてくれようだった。
公園の端には、沈黙を守りながら暗闇に鎮座するいくつかのダンボールの家が見え隠れしていた。静まり返ったダンボールはひっそりとなりを潜めつつも、こちらの様子をくまなく観察しているように思えた。
そのねっとりした視線を振り切るかのように彼女が突然振り返ると、彼は驚いた様子で慌てて彼女に駆け寄り、その勢いでバランスを崩した。そのまま何かに躓(ツマズ)き、噴水の中に手をついた。
それまで静まり返っていた水面が、彼の腕を中心にざわめいた。美しい半円を描いて広がる波形が薄暗い外灯に照らされてキラキラと輝いて見えた。
彼は肘まですっかり水に浸り、腕にしていた時計の秒針は止まった。
「びっくりさせないでよぉぉ。」
笑顔で千鶴を見上げる哲也がそこにいた。
その彼を至極愛しく感じて、彼女はこう言った。
「よかったら、私とお付き合いしてくれませんか?」
少し呂律がまわっていなかったかもしれない。
静けさを取り戻した噴水の水面から一筋の涼しい風が優しく頬を吹き上げ、その風に誘われるように見上げた空は、ネオンに照らされ、遠く霞んで見えた。そして、その遥か彼方の暗闇に星の影は見えなかったように記憶している。