やわらかい光の中で-69
海の帰りに桜を見に行こうと言われて、彼女は何も言わずに快くついてきてくれたが、まさか千葉から神奈川まで連れてこられるとは思っていなかったかもしれない。本当は予定という程でなくとも、何か家でやりたいことくらいはあったのかもしれない。
彼は目的地の場所も彼女の帰りたい時間も確認することもなく、勝手にここまで彼女を連れ出した。そして今日、裕美を誘い出すことに成功してから、あまり彼女の顔を見ていない自分に、初めて気が付いた。
どこから来たものかは解明不可能だが、今、確実に彼の中にある緊張感のせいで、彼の意識は自分だけに集中されていた。
だから、隣にいる裕美の様子や反応を気にかける余裕がなかったのだ。そして、自分がそれ程までに余裕を失っていることにも気が付く事ができないでいたのだ。
彼女に非常に申し訳なくなり、改めて、彼女の予定を再確認すると、笑顔で大丈夫だと答えてくれた。そして優しい声で微かに見える桜を見ながら、こう付け加えた。
「わりと好き、そういう拘り…私もそういうところあるから…。
明日も休みだし、時間はたっぷりあるから。」
聞き慣れた彼女の優しい声が、新鮮な空気を帯びて彼の耳まで届いた。
すると先程まで彼を征服していたモヤモヤはどこか遠くへ消え去り、なんとなく優しいほんわりとした安堵感に包まれた。
そして今日の自分がぼんやりと通り過ぎていき、不確かな点と点が見えない線で繋がれていくように、頭の中が整理されていくのを感じた。
先ほどまでの緊張感は、今日、裕美に想いを伝えようとしていたからだが、人としての余裕を失う程の緊張していたのは、告白する事に対しての緊張ではない。
彼には、裕美の気持ちが全くわかっていないからだ。
というよりはむしろ、彼自身が彼女の気持ちを確認しようとしていなかったのだろう。
恋人のいた千鶴に告白した時もこんなに緊張はしなかった。
結果的には彼女がその男と結婚する事を知らされたのが、今思えば、告白する前は、なんとなく千鶴からの好意を確信していた気がする。だから別の男と結婚すると聞いて殊更驚いたのだ。
しかし、裕美に関して言えば、まだ知り合って間もないというのもあるが、彼は裕美からの好意を全く感じていない。
さすがに嫌われているとは思わないが、それ以上でなければそれ以下でもない。
自分が結婚したいと思うようになり、そこに裕美がいた。
彼女と海に行き、話をするうちに勝手に彼は自分の中で、「山上裕美」という人間像を作り上げてしまった。
本来の彼女をキチンと見ることなく、勝手に自分の妄想の中で裕美を生かしてしまっているのだ。
彼女がどういう人間で、何を思い、何を感じ、これからどうして行きたいのかなど、慎治は全く考えていなかった。
だから、本能的に彼は何か疑問を感じていたのだ。
モヤモヤしてイライラが募ったのだ。
あのソワソワした落ち着きのない緊張は、そこから来ていたのだと、彼はぼんやりと考えながら、彼女の言葉を頭の中で繰り返していた。
そして、力なく呟くように会話を続けた。
「…そんなに拘りがある方ではないけど…。
けっこう、自然を見たりするの好きなんだ。
太陽とか、光の加減とかで大きく変わったりするじゃん…そういうの…。
なんか、一期一会って感じがして、好きなんだ…。」
自然と素直な言葉が次から次へと出ては来たが、それを言いながら、どうしようもなく恥ずかしくなり、言葉尻が必要以上に小さくなった。