やわらかい光の中で-54
「私のものは全部捨ててね。新しい子ができたとき、前の女の匂いはさせちゃだめだよ。女ッてけっこうそうゆうの見てるんだから。」
無理やり出した明るい彼女の声は、涙声に聞こえた。
しかし彼は振り返ることなく、ドアを開け、部屋を出た。
背中から小さく「元気でね。」と聞こえたが、振り返るとドアは冷たくゆっくりと閉まった。そのゆっくり閉まるドアを押し開けようと手が伸びかけたが、金縛りにあったように体が硬直し、その手がドアに触れることはなかった。
部屋の中から先程より激しく流れる水の音がした。そして、その水音の向こうに彼女の泣き崩れる声が聞こえた。
彼は振り返り、反射的にドアノブに手を掛けたが、それを回すのは止めた。
もう既に、自分が彼女にしてあげられることは何もない。
彼女にしてあげたいと思うことが、何もないのだから…。
ドアノブを握り締める手に自然と力が入った。
その力の強さが、自分の罪深さを物語っているように感じていた。
3年前、千鶴を追いかけなければ、今頃、彼女は子供でも産んで幸せな家庭の奥さんに納まっていたのかもしれない。
その彼女の人生を狂わせたのは自分だ。
彼女のアパートを出てすぐのところに小さな公園がある。
昼間は子供たちのはしゃぐ声で溢れ、近所の奥様方の情報交換の場として利用されているのだろう。
その公園は、日が落ちると昼間の喧騒が嘘のように静まり返る。
千鶴を諦めると決めた夜、静まり返ったこの公園の塀に腰をかけ、彼女を想いながら泣いたことを思い出した。
そして、今、また同じ場所にゆっくりと腰を下ろし、今度は自分の罪深さに人知れず涙がこぼれた。
◆
辻元から連絡が来たのは、2月になってからだった。
佐久間の結婚式の2次会で久しぶりに会った時、「女を紹介してくれ」と、自分から言ったことなど、彼はとうに忘れていた。
突然の辻本からの電話に若干当惑気味ででると、開口一番、彼はこう言った。
「内藤さんに、合いそうな子、うっかり、見つけちゃいました。」
普通に聞いても抑揚の少ない辻元の口調は、電話を通すと更にそれが増した。慎治はその単調な言葉で、自分の苦言を思い出し、苦笑いを浮かべながらも、心のどこかで神の思し召しだと、その苦笑いを微笑みに変えていた。
そして早速、千鶴と別れたことを告げると、それは都合がいいと彼は言って、高校の後輩を紹介すると付け加えた。
「今日、急にそいつと会うことになったから、もし都合がよければ、どうですか?」
と、特別慎治を誘っているわけでもない能天気な調子で辻元が誘ってきた。
慎治は辻元から女性を紹介してもらえるとは思っていなかった。彼とは考え方や生活スタンスが似ていたので、自分があまり友人に女性を紹介するタイプではなかったから、辻元もそうであろうと勝手に決めていたのだ。
そしてその上で、紹介してくれるというのであれば、それなりに期待できる女性なのではないだろうかとも思った。
その日は特別予定もなかったので、彼はその誘いに乗ることにした。