やわらかい光の中で-53
本来、愛情は川上と奥さんのように、時を重ねる中でお互いに変化が生まれても、それを2人で乗り越えてながら共に生きていくのが自然だ。それがギリギリのバランス感覚であっても、上手く均衡を保って関係を続けていくのが自然なのだ。
しかし慎治には、どうしても受け入れられない千鶴の何かがあった。そして、その存在を彼は3年間無視し続けていたのだ。
そして彼は、僅かにズレたバランスを立て直そうとするよりは、そのズレを見なかった事にして過ごしてきたのだ。そのズレの原因を直視する事を意識的に避けていたのかもしれない。
そうした歪(ヒズミ)が少しずつ2人の関係を圧迫し、よくない方向へゆっくりと走らせてしまった気がする。そして、アンバランスになりつつある2人の関係にどこかで気が付きながらも、彼はただ、黙ってそれを見過ごしていたのだ。
…ただ、好きなだけで、どうしても必要な相手なわけでもなかったのだ。
どうしても必要な相手にはなり得なかったのだ。
いつからそうなってしまったのか、それとも昔からそうだったのかはわからない。
それでもこれから先、彼女がずっと「ただ好きな相手」であり続けることだけは、悲しい程にはっきりしているように思えた。
「慎ちゃんの部屋にある、私の物は適当に捨てて。取りにいかなきゃいけないようなものはなかったと思う。スウェットと化粧品くらいでしょ。…全部捨てておいて。」
作り笑顔でそう言うと、千鶴は立ち上がり、食卓の食器を持って台所に向かった。その瞳に涙の影は見当たらなかった。
蛇口から勢いよく流れる水の音がした。
少しして給湯器のガスがつく音がする。
彼女は無言で彼の使った食器を洗い始めた。
テレビでは番組のエンディングが流れ始めていた。
流れるテロップを見ながら、彼女のこういう強さに自分は甘えていただけなのかもしれないと反省した。
今日の言葉を彼女はどれほど前から用意していたのだろうか。
慎治の本心を聞きたいと思いながら、聞けないでいた時間を彼女はどうやってやり過ごしていたのだろうか。
もっと早くにこの話をしていたら、2人の関係は変わっていたのではないだろうか。
自分は何故それを避けたのか。
今日、彼女は慎治の前で絶対に泣かないことを彼は確信していた。
もし彼女が今、涙を流したら、彼は優しい言葉で彼女を抱きしめるだろう。
そうして2人の関係が戻ったとしても、それは2人の新しいスタートにはならない。
その事を彼女も彼もよく理解していた。
新しいスタートを切るには、2人は無駄に時を重ねすぎた。
彼は、全てを理解して彼を包み込んでくれる彼女の強さに甘え、今日まで別れを引き伸ばした自分を情けなく思った。
2人の終止符を彼女に委ねた自分が、恥ずかしかった。
彼は何か言葉を探した。
先ほど探した言葉とは違う、何か彼女を思いやれるような言葉を。
しかし、その時の彼にはその言葉さえ見つける事ができなかった。
しばらくの間考えたが、諦めてゆっくり立ち上がった。
テーブルの上の携帯を手に取り、玄関へ向かった。
「これで本当に最後だな」と頭の中で呟いた。
千鶴の横を過ぎる時、一瞬立ち止まったが、彼女の顔を見ることは出来なかった。
そして、小さく「ご馳走さま。ありがとう。」と言うと、目の前のドアノブに手をかけた。