やわらかい光の中で-48
気まずい空気が2人の間を流れた。
何か気の利いた台詞を言おうとしたが言葉が出てこない。
慎治がその緊迫感に押し潰されそうになっていると、千鶴が笑顔で口を開いてくれた。
「止めよう。この話。もう、おしまい。」
そう言うと、彼女は残りのビールを一気に飲み干した。
「そんな話をしに来たんじゃないの。
今の会社、来週末で辞めることにした。
それで、チエちゃんと月末に1週間ちょっとだけどイタリアに行ってくるね。」
いつもの彼女の声に戻っていた。
「え?今の会社、半年って契約じゃなかったっけ?まだ、1ヶ月だろ?」
「うん。ちょうど1ヶ月で、このまま満期まで働くか、辞めるか決められるの。職場によっては、どうしても合わない人とかもいるからさ。
…前にチエちゃんから、旅行に誘われてるッて言ってたの覚えてる?」
「覚えてるけど…今の会社やだったの?」
「別に、そういうわけじゃないけど。…ヨーロッパって、今の時期が1番安くて、この時期、逃すとすごく高いから…。一応、旅行に行くことが言いたくて来たの。…今日は帰るね。」
そう言うと、千鶴は立ち上がり寝室へ向かった。
いい加減な女だと、千鶴のことを思った。
自分が旅行に行きたいがために簡単に会社を辞めるなんて、慎治には考えられなかった。
しかしそれが、派遣社員の利点なのかもしれないとも思った。彼女だけが特別なわけではない、と自分の会社の派遣社員を思って納得した。
彼女が寝室から出る気配を感じたので、玄関まで見送りに行った。
彼女は慎治に振り返ることもなく、「遅くにごめんね」と言った。
本当は千鶴がこのまま、朝までこの部屋で過ごすつもりだったことに、慎治は気が付いていたが、今日はこれ以上、一緒にいるとよからぬ話になりそうだったので、彼女をこのまま帰すことにした。
「危ないから送っていく」と彼が言うと、彼女は手を振って、その申し出を断った。
慎治は気まずい空気を跳ね除けるように、わざと甘えた声で「つれないなぁ」と、おどけて見せたが、彼女は無反応だった。
変わりに、ドアノブに手をかけた時、振り返らずにこう言った。
「慎ちゃん、私と結婚する気ある………?」
彼女の肩が小刻みに震えているように見えた。
慎治がその肩に恐る恐る手を掛けると、千鶴はその手を勢いよく振り払い、ドアを押し開けて、部屋を出て行った。
彼女はおそらく泣いていた。
しかし、彼は追いかけることができなかった。
重たいドアが、ゆっくり閉まる音を聞きながら、千鶴の残像がだんだん遠のいていくのを感じていた。
「千鶴と話さなければならない」
懸命にそう言い聞かせている自分がいた。