やわらかい光の中で-43
「オレその時さ、料亭辞めて、自分の店開きたいって言いながら、オーナーになってくれる人を探してたんだけど、なかなか、いい人に巡り合えなくてね。昼間は、ドカタやりながら、夜は居酒屋でバイトしてる生活でさぁ。とても、家族を養えるような状態じゃなかったわけ。
だから、妊娠したって聞いた時、おろして欲しいとは思わなかったけど、なんで、今なんだよとは思ったね。
正直。」
「へぇ。おろして欲しいとは思わなかったんだ。」
「うん…思わなかった気がするなぁ。よく覚えてないけど。」
懐かしそうに微笑む川上の顔が、今の生活の幸福感を伝えてくれた。
「ちょっと、これ、いい話なんだけど。
その時ね、カミさんが、ずっと貯めてた通帳出してきて、私は、子供を産みたいから、この金で、あんたの夢を見させてよッ、みたいな事、言ってくれたんだ。」
CDが一巡したので、別のCDに変えるために、川上は腰を上げた。
「奥さん、そんなに貯めてたの?」
オーディオの前で、次の音楽を選んでいる川上の後姿を見ながら、慎治が聞いた。
「実際は、その金全部遣ったわけではないんだけどね。…出産費用とかもあったし。
でも、なんやかんや半分以上は、頂いちゃったな。
オレも一応は貯めてたから、アレだけど…
店開いて、すぐに軌道に乗らないかも、とか考えると、キリキリって感じだったね。
それでも、彼女、20歳の頃から働いてて、ずっと毎月少しずつ貯めてたから、それなりにはあったよ。」
川上は、ボブ・アンディというロックステディ時代を代表するソロアーティストのLPをかけた。
「この辺の曲、内藤さん好きでしょ?」
川上は独特の得意げな笑いをニヤっと浮かべて、また席に戻った。
「うん。」
慎治もつられて、ニヤリと笑った。
「オレもこの辺の曲好きだから。」
川上は音楽の薀蓄をたれるタイプではないが、相当この手の音楽には詳しいようだった。慎治も音楽の能書きを覚えるのは、得意な方ではなかったので、何も言わず、ただ、色々な曲を聞かせてくれる、この店のオーナーの趣味を気に入っていた。
「ってゆうか、凄い良い話だね。」
慎治は話を戻した。
「でしょ。今考えると、オレもよくその金で、店、開いたなと思うけど。
当時、若かったから、この金で、家族養ってやるッて、思ったんだよね。
今だったら、申し訳なくて、そんな金使えないよ。
店開くって言ったってそんなに簡単なことじゃないからね。
…客が付くかもわからないし。そんな、賭けに出るんだったら、どっかの安定した店で働くよ。
…今ならね。」
川上は穏やかに微笑んだ。
「なんか…縁っていうか、タイミングみたいなものがあったのかねぇ?」
ビールを飲みながら慎治が聞いた。
「そうだろうね。この店にも。カミさんにも………。」
照れくさい想いを隠すように、不自然にいやらしい笑いを浮かべて、川上が答えた。
「彼女を幸せにしようって、そん時思った?」
「うぅぅ。どうだろう。思ったのかなぁ。
思ったような気もするけど、そんな大それたこと考えたことないなぁ。
付き合い始めた頃から、一緒にいるのが当たり前だったから。
好きとかそういうのも、あんまり意識したことなかったし、初めから。」
「じゃぁ。どうして付き合ったの?」
「どうしてだろう。なんとなく…。告白したことも、されたこともないかもなぁ。
プロポーズも…カミさんからされたようなもんだし。
…なんとなくやっちゃって、できちゃって、そのままっ、て感じ。」
笑いながら、川上はジョッキのビールを飲み干した。
そんな川上に茶々を入れながら慎治も笑った。
「でも奥さん、かっこいいね。」
「…うん。かっこいいよね。」
「奥さんがいなければ、この店もなかったってわけだ。」
「そういうことになるね。」
そう言うと、川上はまた幸せそうに笑った。