やわらかい光の中で-42
今日はいつもより客が少ないようだった。
慎治が入ったときにいた客も、彼が3杯目のビールを頼む頃には席を立っていた。
「今日は、お客さんの引きが早いですね。」
誰もいなくなった店の中を見回しながら、慎治が口を開いた。
「給料日前だからね。こんなもんでしょ。」
店主の川上が洗い物をしながら、笑顔で答えた。
彼は時計を見て、流しの前にかけてある手ぬぐいで手を拭いた。
11時を少し回ったところだった。
「もう閉めちゃおっと。」
そう言うと、カウンターから出てきて、外の営業の札を取りに行った。
そしてカウンターの中に戻りながら、気にしないでゆっくりしていくようにと慎治を気遣った。
明日も仕事だったので、そろそろ帰らなければと思ったが、何故だか、腰が上がらなかった。
そんな彼の様子に気が付いたのか、川上が言った。
「内藤さん、なんかあったの?」川上の手は再び洗い物に伸びていた。
「なんで?」不意をつかれて聞いた。
「いや、なんとなく。内藤さんが、あんまり、帰りたくなさそうにしてるの、珍しいなと思って。」
川上は洗い物を終え、明日の仕込みの材料を冷蔵庫から出しながら言った。
自分ではいつもと何も変わらないつもりでいたが、何か、いつもと違う雰囲気を出していたようだ。
慎治はずっと千鶴とのことを考えていた。
彼女との結婚がどうしても想像つかないのだが、その理由が、彼には見当たらなかったのだ。
「川上さんは結婚して、どれくらいになるの?」
自分の話をしたくなくて、川上の話に切り替えた。
「7年、いや、8年、8年目かな。」
手を動かしながら川上が答えた。そして、もう昔のこと過ぎて忘れた、と照れくさそうに笑った。
「どうして、今の奥さんと結婚しようと思ったの?」
単なる興味本位で慎治が聞いた。
「子供ができたから。まぁ、ずっと一緒には、暮らしてたんだけど。
内藤さんも、そろそろ、結婚のこととか、考えてるの?」
適当な調子で川上が聞いてきた。
「実は、今日、上司に言われてね。早く結婚した方がいい的なことを。」
ジョッキについた、溶けかけの氷を指で溶かしながら、慎治が答えた。
「なるほどね。そんなことも上司から言われるんだ。」
サラリーマンも大変だねと用意された台詞のように、川上が言った。その感情がこもっていない対応が、その時の慎治には、かえって心地好かった。
「まっ、本来はそんなこと言われないんだけどね。」
「へえ。」
「子供ができたとき、正直、おろして欲しいとか思わなかった?」
海老のフリッターを箸で掴みながら聞いた。
「微妙な質問だね。」
川上は仕事をしている手を止め、意味深な笑みを浮かべて答えた。
5年通う間に慎治と川上は世間話をしながらも、深い話をする仲になっていた。
「おろして欲しいと思うよりは、おろしたいって言われると思ってた。ホントは。」
彼は真面目な顔をして慎治を見つめた。
「もう店閉めたし、オレも貰って良いかな?」
慎治が笑顔で答えるのを待って、川上は凍ったビールジョッキの入っている冷凍庫へ手を伸ばした。慎治の飲みかけのジョッキに乾杯の挨拶を軽くすると、彼は続けた。
「ウチのカミさんさぁ。昔、美容師やってたんだよ。ちょうど妊娠した頃、友達と5人くらいで店、開くことになってたんだよね。だから、おろしたいって言われると思ってたんだ。
…けど、産みたいって、彼女が言ってくれたから、そうして欲しいって、言ったよ。」
カウンターの隅に置いてある椅子に腰をかけながら、川上が言った。