やわらかい光の中で-41
夜の風は、秋の訪れを告げていた。
彼女は今、タイへ旅行中だ。
そのことになんの不満も感じていなかった。むしろ、高沢からの話をうっかり話してしまいそうな自分を想像して、千鶴が旅行中だったことに感謝した。
生温い大気の中に薄ら冷たい風を感じながら、慎治は人がまばらになった商店街を歩いていた。
そして、その足は自然と馴染みのバーに向かい、気が付くと、流木でできた店のドアノブを引いていた。
◇
薄暗い小さなバーにはカウンター席しかない。
大きな木の一枚板で作られたカウンターテーブルは、歪な曲線を描きながら店の奥へ末広がりになっている。
慎治は広くなっている店の1番奥の席に座った。
店内は有線から流れる波の音と、ロックステディのメロディアスな音楽が、他の客の声が気にならない程度に流れていた。
その楽曲が、ロックステディの名付け親的存在となった、アルトン・エリスのものだと彼はすぐにわかった。
ザ・デルフォニクスというソウルグループの名曲の1つ「Lala Means I Love You」をカバーしたものだ。
この曲自体は、何人ものアーティストがカバーしていたが、彼は特にアルトン・エリスが歌うものを気に入っていた。スカの哀愁漂うメロディアスな要素と、レゲエのゆったりとしたリズムの要素を兼ね備えたこの時代の音楽が彼は好きだった。
行ったことはないのだが、この音楽の故郷でもあるジャマイカの夕暮れを思わせるような、彼らのスローライフを感じさせるような音楽だと勝手に思っていた。
ジャマイカにはサーフスポットもあることから、いつかは行ってみたい国の1つだった。
この店は駅から慎治の家までの間にあり、小さなバーではあったが、店主オリジナルの無国籍料理を出す店だ。
店主だけで切り盛りしていて、アルバイトは雇っていない。早い時間に来ると、奥さんがカウンターの外で席を立った客の食器を片付けていることもあるが、夜の8時を過ぎる頃にはその姿はなくなる。
個人経営のこじんまりとした店なのだ。
だから彼らが旅行などで離れるときは休みになる。
席はカウンターに6席、たまに客が入りきらないと、カウンターの出入り口を潰して2席増やせるようになっている。
料理の品数も多くはないが、メニューはまめに変わる。従ってこの店には、好評の定番料理のようなものはない。
しかし、昔は有名な料亭で板前をしていたという店主の料理は、どれも慎治の舌を喜ばせた。
店内のインテリアや出す酒、料理、音楽など、随所に店主の小さな拘りが感じられる店だった。
引っ越した当初から通い始めて、既に5年が過ぎている。
引っ越してきたばかりの8月の暑い夜、飲み会の帰りにふらっと、寄ったのがきっかけだ。それから毎週のように、通うようになった。
通い始めた当初、馴染み客が多く、入りずらさを感じたこともあったが、店主自ら慎治の足が遠のかないようにどことなく配慮してくれたところも、彼は気に入っていた。
しかし店主は話しかけられたとき以外は、殆ど口を開くことがない。
そして、無意味に客に話しかけることもしなかった。
だからといって、無愛想というわけでもなく、客とのいい距離感を保っているように慎治には感じられた。
常連客もそんな店主の心意気を理解しているのか、慎治が何度か独りで通う間に目で挨拶をしてくれるようになった。
この店には、見えない連帯感のようなものが存在していた。
慎治はなんとなく、その空気感も好きだった。
初めて千鶴と飲むことになった時も彼はこの店に彼女を連れてきた。今でもたまに、2人で訪れていた。