やわらかい光の中で-40
それから、千鶴の小さな後頭部を慎治は優しく掌で包み込み、そのまま、胸に押し当てた。
その時、彼女の両肩が小刻みに震えている事に初めて気が付いた。
彼は思った。
目の前のこの女性を幸せにしてあげなければいけない、彼女を守ってあげなければいけない、と。
女性に対して、こんなに強くそう思ったのは初めてのことだった。
そう思った自分を、全く別人を見るような感覚で、見ているもう1人の自分がいた。
その冷静な自分を振り払うように、彼は彼女を更に強く抱きしめた。
そして、最後の力を振り絞って、彼を押し上げようとする革靴の踵の激励を受けながら、千鶴に気づかれないように、彼は上手く爪先立ちになった。
◆
あれから3年という月日が過ぎた。
結局、千鶴は結婚を1ヶ月前に突然キャンセルすることになった。
その始末をどんな苦労をして彼女が乗り越えたのか、慎治は知らない。彼女の両親やその男に、自分も一緒に説明した方がいいのかとも考えたが、話が面倒になるから止めて欲しいと彼女に言われ、彼はその言葉に従った。
その時、自分が思っていた以上に千鶴が強い女性だということを知った。
付き合い始めて1年が過ぎた頃、彼女のアパートの更新時期になり、2人で部屋を借りないかと彼女から提案されたことがあった。
お互い独り暮らしということもあり、千鶴が慎治の家に泊まることも多かったが、彼にとってはタイミングが悪かった。
ちょうど、今の部屋の更新をしたばかりだったのだ。
2人で住むには、今の部屋は少し手狭だと彼は感じていた。
彼は、なんとなく、その申し出を断ったが、何故だか心が酷く痛んだのを覚えている。
その年の彼女の誕生日、自分の部屋の合鍵を千鶴に渡そうとした。
しかし、初めてプロジェクトリーダーを任され、その仕事が忙しくて、なかなか鍵を作りに行けないでいた。
そして、その忙しさにかまけているうちに彼女の誕生日は過ぎてしまった。
彼は鍵を渡そうとした事さえ、彼女に話すことなく、結局、その鍵が作られる事はなくなった。
千鶴は派遣社員で3ヶ月から半年という短い期間で仕事をしていた。その仕事があけると、友人と海外旅行に出る。長い時は1ヶ月以上、帰ってこないこともあった。
結婚を決めていた前の彼は、千鶴が海外旅行に行くことを好まなかったらしく、行きたいところに全く行っていないとのことだった。
初めのうちは慎治と休みを合わせて旅を楽しんでいたが、彼も普通のサラリーマンだ。それほど、頻繁に旅行に出られるわけもなく、そのうち彼女は、学生時代の友人と旅に出ることが増えていった。
しかし、そんな彼女を咎める気持ちにはならなかった。好きなことをやりながら輝いている女性が、彼は好きだったからだ。彼女が、それで輝いているとも思えなかったが、それでも、それが彼女のやりたいことならば、それは、それでいいと、慎治は思っていた。それに加え、彼女が旅に出ている間の彼女のいない生活に、それほど不満も感じていなかったのだ。
高沢から結婚を早めた方がいいと言われ、千鶴との結婚は考えられないと反射的に思った自分にその理由を問いながら、彼はいつもの帰り道を歩いていた。