やわらかい光の中で-39
マンションの横をもの凄い音を立てて、バイクが通り過ぎた。
彼の部屋は、通りに面した南東向きの角部屋だ。南向きに立てられた建物の正面に、住人用の駐車スペースがあり、東側が商店街から続く道になっている。
彼の部屋は、その通りに面していた。夜になると、たまに爆音を立てながら、バイクや車が通ることがあるが、1年もしないうちにその音にも慣れた。
しかし、慣れたはずのその音に、その時はなぜか耳が異様に反応した。
そして、確かめるように彼は聞いた。
「今、どちらですか?」
そう言った時には、彼は窓のカーテンを開けて、外の様子を伺っていた。
外から聞こえたはずのバイクの音が、同時に携帯電話からも聞こえたような気がしたのだ。
「…家のそばの公園です。今…」
彼女は何かを言い続けていたが、それが嘘だと彼には、はっきりわかっていた。
なぜなら、彼女は窓越しに彼の目の前にいたからだ。
先程と同じ服装でドラッグストアの袋を肘にかけ、街灯の真下に立ち、誰もいないのに周りの目を気にしながら、彼女は申し訳なそうにそこにいた。
街灯に照らされている彼女は、妙に儚げに慎治には映った。
彼女は忙しなく、辺りを見回していた。
「嘘だ。」
彼女の言葉を遮って慎治は言った。
「えっ?どうし…。」
言葉を言い切る前に、彼女はカーテンを開けた窓の中の慎治に気付き、そこで、言葉は止まった。
2人は言葉もなく、窓越しにじっと見詰め合った。
彼は暗い部屋の中から、街灯に照らされた彼女をじっと見つめた。
彼女は焦点の合わないような目で、薄暗い彼の部屋の窓を見ながら固まっていた。
暫くして、彼女はおもむろに携帯電話を耳から外し、電話を切った。
そして、持っていたビニール袋にそれを押し込むと、突然走り出した。
彼も部屋を飛び出し、彼女を追った。
自分の部屋が1階だったことに、これほど感謝したことは、それまでなかっただろう。
マンションを出ると、走り去る彼女の後姿が見えた。彼は言葉もなく、彼女を全力で追いかけた。
ヒールの低いサンダルを履いていた彼女の足音が、不規則に商店街に鳴り響いた。
咄嗟に履いた靴が、コンビニへ行くようの安いサンダルではなく、いつも会社に履いていく、イタリア製のシルバノなんたらとかいう高い革靴だったことを後悔しながら、彼は、ひたすら走った。
入社3年目の夏のボーナスで、キャメル色と黒の同じデザインの革靴をまとめて2足購入した。いい男は、いい靴を履くものだと、勝手に決めていた慎治は、1足6万弱もするその靴をまとめて買ったのだ。それ以来、会社用の靴は買っていない。そろそろ、靴を新調した方がいいと思いながら、面倒臭くて買い物に行っていなかった。
おそらく、今、履いているのはキャメルの方だろうなどと、どうでもいい事を考えながら、彼はひたすら走った。
革靴の踵が彼の体重で完全に押し潰されていることを意識しながら…。
彼女に追いつくと、彼は彼女の細い腕を力強く引き寄せた。
千鶴は慎治の腕の中で、彼の強い視線から逃げるように顔をそらせた。
しかし彼の両手は、細い彼女の肩を強く掴んで放さなかった。
彼女もこれ以上逃れられないと判断したのか、ゆっくり彼の目を見つめた。