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やわらかい光の中で
【大人 恋愛小説】

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やわらかい光の中で-38

「千鶴さん。」
 反射的に言葉は出たが、平静を装っている自分がいた。
 彼女はまだ驚いた様子で立っていた。
 慎治が優しく顔を傾げると、彼女は我に返ったように笑顔になった。
「こんなところでお会いするなんて…。」
 現実を受け入れられていないような力の抜けたふわふわした声で彼女が言った。
「買い物ですか?」
 慎治は袋を指差しながら聞いた。彼女は薄ら笑顔のまま頷いた。

 しばしの沈黙が2人を包んだ。
 彼は相手の次の言葉を待った。
 それは、彼女も同じだったのかもしれない。

「じゃぁ…。」
 その沈黙を先に破ったのは慎治だった。
 2人は笑顔で別れを告げると、背中を向き合わせて、お互いの家へ帰っていった。

 独りの部屋で電気も点けず、テレビを点けた。
 阪神巨人戦だった。
 カメラが観客席をゆっくり1周すると、マウンドの先発ピッチャー上原に画面が切り替わった。さすがに阪神巨人戦は満員だなと漠然と思いながら、次のチャンネルに変えた。
 冷蔵庫から缶ビールを取り出すために立ち上がり、スーツのジャケットをテレビの前のソファーに投げるように置いた。
 キッチンの冷蔵庫から缶ビールを取り出し、カウンターに寄りかかるような姿勢で立ったままテレビの画面を凝視した。

 バラエティ番組が流れていた。
 プルトップを開け、ビールを缶のまま勢いよく飲むとテレビの画面を見たまま、ソファーに向かって歩いた。

 先程、千鶴と交わした言葉が何度も頭の中で繰り返されていた。
「食事に誘った方が良かっただろうか、彼女はそれを望んでいたのだろうか…」
 しかし、彼女はもう結婚する女性なのだ。どんなに頑張っても、これ以上そばにいることはできない。

 色々な想いが彼の中を駆け巡っていた。
 平穏を取り戻しかけていた心に、再び波風が立ち始めているのを慎治は感じていた。

「考えたって仕方はない。もう諦めると決めたのだ。」
 彼は自分にそう言い聞かせて、2本目のビールを取りにキッチンへ向かった。
 そして冷蔵庫の中のビールを手にした時、携帯電話の呼び出し音が鳴った。
 ビールを取り出し、それを飲みながら、無造作に携帯を見ると相手は千鶴だった。彼はあわててその電話に出た。

 駅で会ってから、既に1時間ほど経っていた。
「もしもし長谷川です。」
 電話の向こうで、彼女は弱々しく言った。
「あぁ、はい。」
「今、大丈夫ですか?」
 蚊の鳴くような声で彼女が言った。
「ええ。大丈夫です。………先ほどはどうも。」
 彼は、落ち着いてしゃべるように努めた。
「こちらこそ。…なんか偶然に会ったら、懐かしくなっちゃって。」
「はぁ…」
 全神経を耳に集中させて、彼女の声色を注意深く伺った。
「最近はお仕事お忙しいんですか?」
 いつも通りの彼女の声に戻っていた。
「まぁ…そこそこ」
 平静を装い、笑い声交じりで答えた。
「そっかぁ…。」
「千鶴さんも、結婚式の準備とか、大変なんじゃないですか?」
 意識的に軽い口調で聞いた。
「ええ………まぁ…。」
 会話が止まって沈黙が電話越しの2人を繋いだ。
「また、機会があったら、飲みにでも行きましょう。」
 適当な挨拶のように慎治が言った。
 何を言えばいいのかわからなかったのだ。
 しかし、この言葉が出たことで、彼の中で何かが吹っ切れた。本当に彼女を諦めることが、できるような気がしたのだ。
「そうですね。機会があったら…」
 千鶴の声が、耳をかすめた。


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