やわらかい光の中で-37
しかし千鶴と出会って、千鶴に接して、彼は初めてそういう気持ちを理解した。
しかし、その恋はどこまで行っても光の見えない、真っ暗闇の中を宛てもなく歩いているような…そんな脱力感も同時に感じさせた。
なぜなら、結婚の決まった彼女を振り向かせたいと、心の底から思うこともなかったからだ。
勿論、心のどこかに振り向いて欲しいと願う気持ちはあった。
しかし、その結婚が彼女の選んだ幸せな道なのならば、自分はその選択に従う他ないと諦めてもいたのだ。告白した時に曝した醜態を彼女に2度と見せたくなかった。
それ故に、こんな関係は長く続けてはいけないと思うようになった。
しばらくして、千鶴は結婚のために会社を辞めた。
もう、慎治と英会話教室で会うこともなくなった。
彼も彼女を本当に諦める決意を固めた。
そして、もう彼女に会うのは止めようと心に決め、最後に1度だけデートに誘った。
ドライブだった。
自分の好きな景色を彼女に見せ、その景色を思い出す度(タビ)に自分のことを思い出して欲しいと思った。
意外とセンチメンタルな自分に初めて気が付いた。
そして、その最後のデートの夜、彼女を家まで送り、いつものように彼女の姿を目で追った。最後の彼女の姿を目に焼き付けようとしたのだ。彼は暗闇の中で目を凝らして、じっと彼女を見つめ続けた。
普段なら振り返ることのない彼女も、何かを感じたのか、その日は部屋の前で振り返り、そこから慎治を真っ直ぐ見た。
暫くの間、暗闇の中で2人の視線は絡み合った。その時、慎治は何を訴えかけていたのかは自分でもわからない。ただ、彼女から発せられる信号を懸命に掴み取ろうとしていた。
しかし、静寂を守り続ける彼女の視線から、彼が受け取れるものは何もなかった。
そして彼女はそのまま、何も言わず、自分の部屋に入っていった。
暗闇の中で、その視線がどこへ向いているのか、はっきりとは認識できなかった。
でも慎治は確信していた。
その時、2人の視線は意味あり気に絡み合い、そしてそれを隠したまま、暗闇の中に消え去った。そういう運命にあったのだと。
彼女の部屋のドアの閉まる音が小さく耳に届いた。
それでも少しの間、彼女の残像をそこに見ていた。
その帰り道、薄暗い公園の塀に腰をかけ、彼は千鶴を想い、顔を伏せて独り泣いた。
それ以来、彼女に連絡をすることはなくなった。
桜が散り始めた4月の始めのことだった。
◇
新年度の爽やかな陽気に流されるように過ごしていると、春の気分も覚めやらぬままゴールデンウィークが終わり、風が夏の匂いを運んできた。
スーツのジャケットを脱いで歩きたくなるような強い日差しが、慎治の心を引き締め、また新しい生活へと気持ちを向けさせた。
英会話教室で彼女に会わなくなってから1ヶ月が過ぎ、彼の心も平穏を取り戻しつつあった。
これで本当に2度と彼女と会うこともないと実感していた。
そんなある日のことだ。
仕事を終え、いつものように地元の駅に降り立ち、改札口に向って歩いていると、ビニール袋を提げ、駅前のドラックストアから出てくる見慣れた女性の姿が目に留まった。
千鶴だった。
その姿を認識した時、動悸が激しくなるのを彼は感じた。
顔色を変えず、呼吸を整え、何事もなかったようにポケットの中から定期を出し、それを自動改札口へ投入した。
わざと視線を下に向け、改札口を通り抜けた。
声をかけるべきか、声をかけても良いものか、悩んでいたのだ。
そして、その答えを出さないまま改札口を抜け、顔を正面に上げると驚いた様子で立ち竦む千鶴が目の前にいた。