やわらかい光の中で-33
それまでの苦手意識がどこかに追い遣られ、仕事のできる人だという事実だけが残った。
それ以後、心なしか彼との会話が弾むようになった気がするが、それはおそらく気のせいだろうと思っている。
よくよく思い出してみれば、飲み会の席で慎治と高沢が隣の席になることは多かった。
気が付くと、苦手意識のあるこの上司とよく話していたものだ。
しかし、それも最近そう思うようになっただけで、自分の記憶違いかもしれなかったが、慎治は、そういう細かいことを深く考える性質(タチ)ではなかった。たとえ自分の記憶違いであっても、気持ちの良い勘違いであれば、それを積極的に受け入れるタイプなのだ。それに加え、どうでもいいと判断した事をグダグダ考える方でもなかった。
「どこまで話が回っているのか知らないが、実際に選考が始まるのは来年の4月からだ。」
「はぁ…。」
慎治は、相手の次の言葉を慎重に待った。
「ところで、話は変わるが、まぁ…上司の私が、こういう話をするのは、あまり本望ではないんだが、内藤君には、そのぉ、結婚するような相手はいるのかい?」
彼は慎治の方へ向き直り、頭をかきながらバツが悪そうに聞いた。
「まぁ…もしいるなら、そのぉ…早めに決めておいた方が、良いかもな。そういうことだ。」
高沢は慎治の肩をしっかり掴み、そう言うと、ドアの方へゆっくりと歩き出した。
ドアの手前で振り返り、今の話は誰にも言わないように念を押すと、部屋を出ていった。
慎治は、高沢の後姿を見送った後も鳩が豆鉄砲でも喰ったような顔つきで、ドアの方を見たまま、立ち尽くしていた。
彼は頭の中で、上司の今の言葉を反芻した。
つまり、あの噂話は本当だったということだ。そして、その候補の中に、自分も挙がっている。
嬉しいと思うと同時に、何人が現時点で候補に挙がっているのか気になった。
自分に声がかかることを考慮すると、ざっと考えても10人以上の顔が目に浮かんだ。
その中で結婚していないのは、慎治以外にもう1人いるだけだ。
若手ということは、30代の社員が対象になっている可能性が高い。役職もリーダー格前後だろう。大きなプロジェクトのリーダー経験者となると、自分の経験ではまだまだ浅い。
しかし、可能性はあるということだ。
そう思ったら嬉しくなり、自然と左手で小さくガッツポーズをしていた。
しかし問題は結婚だ。
部長にもたった今、それを助言されたばかりだ。
この会社では、やはり独り者が海外に勤務するのは、現実的に有り得ないのだろうか?
もしそうだとしたら、自分にはやはり難しい話だ。
仕事の為に、千鶴と結婚する気にはなれない。
反射的に慎治はそう思った。
「せっかくのチャンスだったのに…」
と、頭の中で呟き、握り締めた掌を静かに開きながら肩を落とした。