やわらかい光の中で-32
◇
冷たく、重いドアを開けると、高沢は既に部屋の隅の大きな窓の前に立っていた。
慎治の会社の周りには、それほど大きな建物はない。窓の下を見下ろすと、下町の袋小路が一望できる。少し先には、新宿のビル群が排気ガスの霞の中に聳えている。
「失礼します」
慎治が頭を下げながら会議室に入ると、高沢は近くに来るように彼に目配せした。慎治がその合図に従い、高沢に近づくと、もっと近くに来るように手で合図した。慎治は、訝しく思いながら、少しずつ高沢に近づいた。
「噂は君の耳にも届いているのかな?」
高沢は突然口を開いた。
「噂、と申しますと?」
慎治は確かめるように彼の顔色を伺った。
すると、「知らないのか」というように慎治を横目で見たので、彼は続けた。
「総本社の件ですか?」
慎治の会社では、アメリカ国内で行われている事業のことを総称して、「総本社」と呼んでいる。それに対して、国内の事業のことは、「本社」と呼ばれていた。
「やはり、噂になっているのか。」高沢は窓の外を見ながら続けた。
部長クラスの人間の中には、人に鎌をかけるような言い方をする者も少なくない。
部長以上に出世するためには、それなりに政治力が必要だ。上役の言葉の裏を読むような技量も、時には、必要なこともあるのだろう。そういう人間関係の中で、自然と身につく話し方なのだろうが、できれば、自分はそういう話し方をするような人間にはなりたくない、と慎治は思っていた。
しかし、そういった話し方をする人間の方が対外出世してもいた。また、そのようにして出世していく人間が、必ずしも嫌味な人間ではないことも、最近になってようやくわかり始めた。
目の前のこの高沢という上司を慎治は信頼していた。仕事には厳しい人だが、評価すべきところはしっかりと見ている人だと思っている。
高沢と慎治の付き合いは長い。高沢が課長だった頃、彼の率いるグループに、入社3年目の慎治が、配属された。
それから7年間、慎治はずっと彼の下で働いている。
現在は、彼の率いる部の中で、慎治が課長を担っている。
実は彼の下に配属された当初、高沢は慎治の苦手な上司の1人だった。
なんとも言えない、威圧感があるように感じられたのだ。飲み会の席でも、どことなく凛とした姿勢を崩さない、人間味のない印象を持っていた。
当時、彼はこの上司とは絶対に上手くやっていけないと思い込んでいたのだ。
一方、仕事はすこぶるできる人だと認めさせられる人でもあった。彼が持つ威圧感は、慎治の怠け心を簡単に見透かし、適当な言い訳では、認めないという気迫を持っていた。彼に仕事を任せられると、如何なるミスも許されないような気がした。
だからといって、口調や態度が威圧的なわけではなかった。むしろ、高沢はある種の優雅さを持って部下と接するタイプの男だったのだ。
慎治だけが、その威圧感と優雅さを感じていたのかもしれないが、その彼の持つ差異が、慎治には怖かった。
しかしいつの日か、それが人の上に立つ人間に必要な気質なのかもしれないと思うようになっていった。
高沢は38歳という若さで本部長になった。それは彼らの会社では、異例のスピード出世だ。
そして2年前、配置換えで慎治の課の課長の席が空くことになった時、高沢が慎治を推薦してくれて、彼は同期の中で逸早く、課長職に就くことができた。
前任者が、別の部署へ配属願いを出していたことは、慎治も知っていたが、まさか、自分にその任が下りてくるとは、思ってもいなかった。
そしてそれを推薦してくれたのが、この高沢だと知って更に驚いた。
彼からはあまり評価されていないと思っていたからだ。
しかし慎治も単純なもので、高沢から評価されているとわかったと同時に、高沢への見方が変わった。