「鬼と姫君」3章B-2
「よいか。この川を下って行けば、やがて、麓の集落に着く。その村人に京の屋敷まで送ってもらうのだ」
姫の否やを聞かず、鬼灯丸は続けた。
結んだ唇を開けば、嗚咽が洩れてしまいそうで、涙を後から後から溢しながら、姫はただ首を振り続けた。
その姫の様子に鬼灯丸は困った顔をする。
その眉根を少し寄せて微笑む鬼灯丸の表情は息を飲むほど美しく、優しかった。
胸が痛くて、姫はとうとう声を上げて泣いた。
何故この様なことになったのだろうか。
自分が鬼灯丸を忘れられず、もう一度だけでも逢いたいと願ったのがいけなかったのか―。
「姫、一つ頼みを聞いてくれまいか」
鬼灯丸は囁くと懐から扇を取り出した。
開くとそこには満開の桜木が描かれており、薄紅の花弁が扇の中で無数に舞っている。
「これを都の北の外れにある寺の僧へ届けて欲しい」
鬼灯丸は姫の手に扇を握らせると更に続けた。
「昔、その僧侶には随分と世話になってな。我が鬼ながら邪心に支配されぬのも、その御方によるものかもしれぬ。鬼であるが故の種々の煩悩を封じ込めるためにその扇を授かったが、どうしても世話になったあの方にお返ししたい」
鬼灯丸は扇を握った姫の手に自らの手を重ねた。
「頼まれてくれような」
光の雫を溢し続ける姫の瞳をみて、鬼灯丸は穏やかに微笑んだ。
姫はそれをみて、堪らず一度だけ深く頷いた。
「約束したぞ」
これで、姫は鬼灯丸の後を追うなどということをせず、きっと生き延びて扇を件の寺へと返しに行くだろう。
姫は涙を宿し、頬に溢れるそれは朝露のように清らかで美しかった。
最後にその滑らかな頬に触れたくなって鬼灯丸は手を伸ばす。
鬼灯丸は身体の感覚が失われ始め、酷い寒気に襲われた。
目が霞み、息が上がる。
鬼灯丸は右馬佐を足止めしたものの、彼らの手勢に捕まることを恐れていた。
姫には手荒なことはしないだろうと考えていたものの、右馬佐の様子ではそれも危うく思われた。
「さあ、姫。お逃げなさい」
荒い息をついて繰り返すが、姫は鬼灯丸の側を離れない。
鬼灯丸の失われつつある体温を自らで温めるように寄り添っている。
その姿が、鬼灯丸には愛しかった。
これ程までに愛しい存在が出来たということ―、それだけで鬼灯丸は満足だった。
鬼灯丸は姫を抱き寄せ、深く口付けた。
触れた鬼灯丸の唇は色を失い、冷たかった。
名残惜しくて何度も唇に触れる。
体温は失われていくが、鬼灯丸は身体の芯に暖かなものが広がるのを感じた。
鬼灯丸はそっと姫の側を離れると、渾身の力を込めて、立ち上がった。
そして、背後に控えていた滝へと自らの身を投じた。