「鬼と姫君」3章@-1
姫が目覚めたとき、鬼灯丸はいなかった。
熱は下がったようで、身体はまだ気だるさを残していたが、頭は霧が晴れたようにすっきりとしていた。
夢うつつに鬼灯丸が甲斐甲斐しく看病してくれていたように思うが…。
それが夢ではないように姫には幾重にも衣が着せかけられていた。
日は既に高いようで、岩の隙間から明るい光が洩れている。
外では木々のざわめきと鳥たちのさえずりが閑かな森の中にこだましていた。
入口に影が差し、両腕に水と果物をかかえた鬼灯丸が帰ってきた。
起き上がった姫をみつけるとほっとした顔をして近付いてくる。
その表情で、姫は鬼灯丸に酷く心配をかけたことを悟る。
「迷惑をかけました」
姫は鬼灯丸に向き合うと、頭を垂れた。
鬼灯丸は姫の額に手を当て、熱が引いたことを確認すると良かったとだけ呟いて微笑んだ。
龜に並々と注がれる水を眺めるうちに姫は汗をかいた不快感を思い出し、いても立ってもおられず、おずおずと切り出した。
「鬼灯丸。身体を清めたいのですが…」
姫の意を汲んだ、鬼灯丸は水桶と布を用意した。
水はまだ冷たく、目覚めた身体に心地よかった。
肩脱ぎになり、布で身体を清めていく。
一通り拭き上げると、律義にも背を向けていた鬼灯丸が声をかけた。
「姫、背中を拭いて差し上げましょう」
姫は驚きと、恥じらいで直ぐに言葉をつむげなかったが、鬼灯丸の言葉に微塵も邪な心持ちがみえなかったので、小さく諾と答えた。確かに、屋敷では侍女に頼んでいたのだが…。
衣を落とし、素肌を露にした姫の背中は雪のように白く、きめ細かだった。
その吸い付くように美しい肌に触れたいという欲求を押し殺し、鬼灯丸は世に一つしかない宝物を磨くかの如く丁寧に拭き上げていく。
一方姫は、全神経が背中に集中し、早鐘のようになった心臓は鬼灯丸に聞こえはしまいかと不安になるほどだ。
違った汗が背中を伝ってしまいそうだ。
それほど緊張する。
鬼灯丸を恋しく想う気持ちが溢れ出て、姫の背中から伝ってしまうのではないか―。
やがて、鬼灯丸は姫の背中を清め終わると、背後から衣を着せ直す。
一心地ついたところで、鬼灯丸は姫の正面に座し、眼差しをひたと姫に合わせ、ゆっくりと口を開いた。
「姫、お別れでございます」
右馬佐が屋敷に戻ると、どこからか花弁がひらひらと舞っている。
右馬佐の手のひらに落ちると、たちまち花弁は一片の紙になった。
驚いてしげしげと眺めると、それはあの陰陽師の男からの文で、二人の行方が知れたという。
都からほど近い、南の方角に深山がある。
その山の中腹、川のそばに隠れた岩屋があるという。
どうやらそこが鬼の住処のようだ。
案内には自分の式神を先導させるゆえ、心配ない―といようなことが認められていた。
都から近い山となると、早ければ明日までには向かえるやもしれぬ。