「鬼と姫君」2章D-2
陰陽寮に足を踏み入れた右馬佐は、そのどことなく不穏な空気を孕む雰囲気に怯んだ。
他の寮と特別、異なるところはないようなのに、何物かの気配を感じる。
それは人とはまた異なる気配で、ひっそりと、だが濃密な空気を纏っているようだ。
右馬佐が訪いを告げるとどこからか、細面の稚児が現れ、陰陽頭へと渡りをつける。
日が高いというのに、薄暗い屋敷の中を稚児の案内で進む。
前を行く稚児は、床に足が着いていないかのように軽やかに、足音を立てずにするすると進む。
やがて最奥のような、端の部屋へ通された。
そこでは冠に束帯をつけた老人が円座の上に腰を下ろしていた。
鼻の下と顎に白い髭を蓄え、好々爺然としたじいさまだ。
老人は右馬佐をじっくり眺めると、ようやっと口を開いた。
「して、急なお運びの用件とは」
挨拶をすっとばし、端的に用件のみを述べる陰陽頭はしかし、ひたと右馬佐を見据えたままだ。
その強い視線にじわりとした汗が背中を伝う。
「実は、さる姫君が妖に拐されたのです。姫を連れ戻すために、居場所だけでも分からぬかと―。どうかご助力いただきたく、こうして参上仕った次第なのです。突然の訪問はご勘恕のほどを…」
「ほう。したが、その妖というのは」
「鬼にございます。何でも玖珂山に住まうという…」
「はて、玖珂山とな。そのような山の名はとんと聞かぬが…」
「しかし、はっきりと聞きました。確かに、玖珂山と。そうこうしている間に、はや夜も明けてしまいました。姫君は今どこで、どうしておるのか…。果ては生死すらも危ぶまれ、心配で気が休まりませぬ」
右馬佐はがっくりと項垂れた。
陰陽頭は暫く、対峙する男の様子を静かに眺めていたが、やがて口を開いた。
「随分と心配しておるようだが、この爺が聞き及んだ話によると、その姫君は己から鬼と共に屋敷を出たとか」
老人の言葉に、右馬佐は俄に頭を上げ、言い募る。
「まさか、そのようなことがあろうはずもありません。世間知らずの姫を妖が唆したのです。姫は私と夫婦となるのですから」
老人は黙したままだった。
しかし、右馬佐を見つめる黒々とした双眸は、右馬佐が語らずとも全てを理解しているような光を湛えている。
陰陽頭はゆっくりとかぶりを振った。
「力にはなれぬようですな。私は、一介の役人に過ぎませぬ。星を読み、吉事を卜うことはできようとも、何処かへ去ったものを連れ戻すなど…」
あくまで、姫の意志で屋敷を出たということを含ませた陰陽頭の言葉に、腹を立てた右馬佐は、語気荒く迫った。
「鎮護国家は貴方がたの役目でしょう。あの鬼を放っておけば、後々にまたこの様なことが起きるやもしれませぬぞ。民を脅かすものは調伏せねばなりますまい。せめて、鬼の住処だけでもお分かりにならぬのか」
「調伏すべきは害を及ぼすものだけです」
静かに言い放った老人の言葉を最後に、右馬佐は立ち上がった。
のらりくらりと右馬佐の要請を跳ね退ける陰陽頭にこれ以上言葉を重ねても無駄だと悟ったのだ。
怒りを隠さず、挨拶もそこそこに立ち去ろうとする右馬佐の背中に、老人の言葉が注がれた。
「お気をつけなさい。鬼は誰の心の中にも潜んでいます。今、貴方の中の鬼も頭をもたげているようですよ―…。」
陰陽頭の言葉を背中に張り付けたまま、右馬佐は大きな足音をたてて、廊下を進んだ。
腹立ちまぎれに床板をだんっと踏み抜く。