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鵜坂神社の奇祭
【フェチ/マニア 官能小説】

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鵜坂神社の奇祭-1

 私は北陸のとある大学で日本史を学ぶ学生だ。今日は夏休みのレポートを書くために、郷土史の先生とこの鵜坂神社を訪れた。
 鵜坂神社は富山市にある歴史のある神社である。その境内に足を踏み入れた時だった。先生がそっと私の背後に手を回した。びっくりして振り返ると、先生は私のお尻を叩こうとしているではないか!
「キャッ、先生、やめてください!」
 私がお尻を両手で隠して逃げ回ると、先生は笑いながら右手を振り上げて追いかけてくる。
「わかった、わかった。冗談はここまでにしとこう」
「先生、いきなりお尻に手を回すなんてセクハラですよ」
「いや、この神社のことをね。ちょっと悪戯が過ぎたか」


ゆだんしていくな  うさかの尻打ち祭り    松尾芭蕉
あなこわや鵜坂祭りの  音にむち       宝井其角

いかにせん  鵜坂の森に身はすとも  君が笞(しもと)の数ならぬ身を
                       源俊頼

 富山県婦負(ねい)郡の鵜坂神社には、薯ツ祭(通称、尻打祭)という特殊神事が平安から江戸末期まで存在した。5月16日の祭日、神主が祝詞を唱え、一郷の婦女にその年に会った男の数を言わせ、榊の笞でその数だけ婦女の尻を打った行事だ。婦女の不貞を戒めるための祭りといわれ、日本五大奇祭の一つにも数え上げられていたが、その祭りの性質ゆえかそれを伝えるような書もほとんど現存していない。ただ冒頭に紹介した芭蕉や其角の句からは、この祭りが「嫁の尻叩き」のような形式的で和やかなものではなく、戒めの色彩の強い、当の女性にとってはかなり怖い祭りだったのではないかと推察される。
 この神事、明治以降は雌馬の尻を打つことに代えて続けられていたが、第二次世界大戦の終戦頃に廃絶したようだ。さてその起源だが、正月に七草粥を炊いた残りの薪で女性の尻を打つと健康な子が生まれるという平安朝の公家の遊びが伝わったもので、安産や縁結びを願ったものというのが一般的な解説である。つまり、「嫁の尻叩き」と同じ起源に由来することになる。

 ここで「嫁の尻叩き」について見てみよう。昔は日本全国に存在した行事で、嫁が婚家に初めて入るとき、若者などが藁束でその尻を叩く風習だ。現存するものとして有名なのは、福岡県春日市の「嫁ごの尻たたき」。盛装した花嫁が神社に参拝後、境内の広場で、待ち受けていた子供達が藁束で包んだ棒で花嫁の尻を叩く。この行事は尻を叩くのは野蛮との理由から大戦を機に途絶えていたが、昭和57年に復活したそうだ。もう一つ、鳥取県泊村の伝統行事に「ええ子ええ子」がある。嫁を迎えた家を子供達大勢で訪れて「ええ子ええ子よ?」と大声で歌い祝う行事だ。このときに「てんじりこ」という藁で作った紐の付いた玉で嫁の尻を叩く。どちらの行事も安産祈願のためであり、鵜坂神社の尻打祭とはかなり趣が異なっているように思われる。

 どうして安産祈願の行事が女性の不貞を戒める怖い祭りへと変質したのか? 私は大正13年に日本精神医学会が発行した「変態性欲」という雑誌を入手した。執筆者は田中香崖という人で、93ページから7ページにわたって「越中鵜坂神社の尻打祭に就いて」とのタイトルで論文を寄せている(以下、引用箇所はすべて旧字旧仮名だが、新字新仮名に改めさせていただく)。

 香崖は文の冒頭に上記の平安朝の歌人、俊頼の和歌を引用し、これが尻打祭に寄せて詠んだ恋歌であり、平安朝時代にあってはこのような奇異な風習が盛んに行われていたと述べている。また、18世紀の書「倭訓栞」によると、「杖をもて女の尻をうつことあるその杖を鵜坂杖という。賢木(さかき)のしもとなり。よりて『しもとだち』の祭とも『しりだち』の祭ともいう。俗には尻打祭という」とある。
 この風習は近代に至るまでも世人に知られていたようで、江戸時代の絵本や雑書にもその記録があるという。例えば寛政5年版、初代歌川豊国の「絵本関の物競」という書には、神主が榊の枝で女性の尻を打たんとする絵を載せつつ、「皆氏子にくむにはあらぬ杖の下」という俳句と俊頼の和歌を掲げ、「男せし数だけ尻を打つ、不貞の戒めなるべし」と記していたそうだ。
 狂歌にもなっている。


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