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Delete <彼の左腕は堕胎によって失われる>
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 一夜を越すたび、彼女の性欲と、それに対する欲求はますます強まる。やがて、友人と遊ぶことすら億劫になる。ああ、セックスがしたい、と彼女は思う。ただ彼に触れられたいと思う。舐められたいと祈る。仕事も手につかなくなり、セックスのない夜は上手く眠れなくなる。そして、自分で自分を慰めようとするが、それもどうやら上手くいきそうにない。

 そのような日々が続き、彼女は自分が異常だと悟り始める。でも、気づいたときにはもう遅い。彼女はもう元には戻れない。彼女はもう変わってしまった。変わってしまう前の自分が一体どんな存在だったのか。どんな表情で、どんな考え方をしていたのか。もう分からない。戻れない。そうして彼女は自分が獣だと思い始める。もう人ではないのだと悟る。いや、あるいは人というのはそもそももっと動物的な存在で、ただ単にあらゆるルールや、道徳観や、教育や、環境がそれを許さないだけなのかもしれない。そういう観点から見れば、本能に従う動物という存在として彼女は実に正しいということになるが、少なくとも現代の日本社会においては、彼女のような存在は認められない。余りに違う価値観の人間が、ほぼ同一の価値観を強要される社会で生き抜くことは、想像を超えて難しい。

 そして、とある満月の夜。彼が夕飯に作るオムレツの材料をスーパー・マーケットに買いに行き、冷蔵ケースの前で牛乳を選んでいるまさにその時、彼女は彼の大切にしていたバーバリーチェックのネクタイで首を吊る。



いいや、よせよ。俺はまた何を意味不明なことを考えてんだ。でも、理由は分かってる。この部屋は静か過ぎるし、退屈すぎる。俺はただの暇つぶしとしてそんな妄想をしている、と思ったところで、ふいに真っ白に塗られたテレビがボウンという音を立てて、ブラウン管に僕が想像したのと全く同じバーバリーのチェックのネクタイで首を吊る女の姿が映し出される。なんだこりゃ、と僕は思う。なんで俺の想像とまったく同じ映像が、現実世界で映し出されてるんだ?

気づくと男は僕の側に立っていた。目の前にグラスが一つ置いてあり、その中には砕いた氷が入っている。どれもバラバラの大きさで、ところどころ欠けていて、グラスの奥には砕けた氷の屑があって、少し溶けかけていた。ちぐはぐな感じがする。さっきスピーカーから聞こえてきたあの優雅な氷を割る音と、実際にグラスに入っている氷の質との間には決定的で致命的な差がある。隣に立つ男の方を眺めて、僕は気づく。男には左腕が無かった。

「見ての通り」男は言う。「利き腕を失った今はもう氷を上手く割れない」

 僕は黙っている。僕は自身の妄想を思い返している。この場所は僕自身が望んだ場所。あるいは、彼自身が導いた場所。僕はかつて芸術的に氷を割ることの出来た男の姿を思い浮かべる。そのまま日々が続けば、幸福な日々が続いていたという確かな予感を感じる。でも、男は利き腕を失い、そして彼の恋人は首を吊って死んだ。そう。彼は利き腕を失ったのだ。もう官能的な愛撫は出来ない。彼は失ったのだ。失くしてはならないものを。もう、後戻りは出来ない。

「ねえ、一つ教えてくれないか? 私と彼女、間違っていたのはどっちだい?」

「それは間違いなく彼女ですね」と僕は答える。

「なぜ?」

「その左手は、あくまでもあなたのものだったです。その左手は彼女のものじゃない」

 言いながら、僕は一ヶ月前の夜のことを思い出している。それはそっくりそのまま、僕自身がかつて言われた言葉だった。


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