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──そういえば、あの子。
ポンプを漕ぐ雛子の手が止まった。首に巻いた手拭いを取ると、滲む汗に当てながら、
──哲也くん、だったわね。それに、皆んなも口ごもっちゃって…。
浮かぬ顔で思案する。挨拶出来なかったことが気になって仕方ない。
「…同じクラスなら良いんだけど…」
雛子は再びポンプのレバーに手を掛けた。
夕闇が迫る頃、山に囲まれた美和野は冷気に包まれる。
「はあ?ッ、気持ちいい?」
タイル貼りの湯船に入り、お湯に浸かると頬が緩む。
4月になっても、夜はまだまだ寒い。こんな時はお風呂で温まるのが1番だ。
夕食はじゃがいもの甘煮に、朝作った味噌汁に玉子を入れた。
身体を動かしたぶん、食事が美味しい。今夜もあっという間に平らげた。
お風呂から上がり、寝間着に着替えた雛子は居間の戸をわずかに開いた。
居間の隅に置かれた衣紋竿。そこには、群青色の訪問着が衣紋掛けで吊されていた。
明日のために、父が用意してくれたモノだ。
──明日は早起きしなきゃッ。
戸をそっと閉め、茶の間に布団を敷いた雛子は目覚まし時計の針を6時に合わせる。
「8時って云ってたけど、初日だから30分は早く行かなきゃねッ」
独り言を呟きながら、針を合わせると、電球のソケットに有るスイッチをひねり明かりを消して横になった。
「う…ん…」
寝返りを打つ雛子。明日のことを考えてしまい、気持ちが昂ぶる。
──仕方ない…。
雛子は気持ちを集中すると、
──♪み?かんのはァ?ながァ、さあいているゥ?♪
心の中で歌を歌いだした。中学生の頃、眠れない時に歌いながら歌詞の情景を思い浮かべると、不思議と眠れたのだ。
以来、彼女は眠れないと必ず歌っている。──それも、中学生の頃に聴いた流行歌を。
──♪リンゴはなんにもいわないけれど、リ?ンゴ?のきもちィはァ、よォくわかるゥ?♪
今では、誰が歌ったか忘れたが、いつもの歌を次々に歌っているうちに雛子は寝息を立てだした。
家の外、美和野は冷気によって空気は澄み、満天の星がキラキラと輝いていた。