「鬼と姫君」 1章-1
晩春の夕暮れだった。
安擦使の大納言の一の姫は、屋敷を出て供もつけず、一人歩いていた。
父母は来客中で侍女たちは、生まれたばかりの二の姫にかかりきり。
何となく面白くなかった。
空は赤く、小さな姫の手も薄く染めている。
その何処か禍々しさを滲ませた夕焼けのなかをゆっくりと歩を進める。
一の姫は今年やっと六つを迎えたばかり。
一人で屋敷を出るなど初めてのこと。
安擦使の大納言の屋敷は公達などの権勢門家が軒を連ねる左京区にあれど、
区の端で奥には山裾の鬱蒼とした森が控えていた。
近頃は左京区でも人拐いが出るという。
人ならまだしも、庶民が住まう都の入口、羅城門近くでは
魑魅魍魎がばっこしていると聞く。
屋敷の外には出ないようきつく言い含められていた。
とはいえ、まだ幼い姫には預かり知らぬこと。
ふと、道端に露草が鮮やかな花をつけているのが目に止まった。
しゃがんで一房手折ろうとしたとき、低い威嚇の声が聴こえた。
視線を巡らすと、摘もうとした露草の奥、一寸先に蛇がいるではないか。
とぐろを巻いている体は青々とした鱗にびっしりと被われ、
金の眼をひたと姫に合わせ鎌首をもたげている。
しゅうしゅうと鳴らす口からは夕焼けより、紅い舌が見え隠れしていた。
姫は凍り付いた。
恐怖のあまり、どっと後ろへ尻餅を付く。
乳母が言っていたことを俄に思い出す。
「長巻には毒をもつものも多くございます。見つけたら決して手を出さずお逃なさい」
しかし、手足ばかりか声も上げられなかった。
絞り出そうとしても喉が掠れ言葉にならない。
否、動揺が過ぎて叫ぶ言葉さえ思いつかなかった。
いよいよ蛇が獲物を捕らえるように身を乗り出し、姫の頬に一雫涙が伝ったとき、
何処からか蛇の側に石が鏃の如く飛んできた。
当たりはしなかったものの驚いた蛇は慌ててしゅるしゅると草むらへ引っ込んだ。
石が何処から飛んできたのか探す暇もなく、姫は力強い手に助け起こされた。
「大事ないか」
尋ねた主は姫より少し年重の童だった。
幼いながら、すらりと背が高く衣は涼やかな浅黄の水冠を身につけている。
姫は童を見上げると息を飲んだ。
それは先程の恐怖とは異なる驚きだった。
童の髪の毛は闇夜に冴え冴えと輝く月のようで、双鉾は淡い榛色をしていた。
姫が今までに出会ったことのない姿だった。
乳母がしてくれた物語に出てくる、月に住まうという天人なのではないだろうか。
先程の恐怖も忘れ、姫はまじまじと少年を見つめた。
間近でみると光の加減で童の瞳は薄い紅色に変化した。
少年は姫の驚きに気付くと少し困ったように眉根を寄せ、
それでも「その様子では咬まれずに済んだようじゃな」と呟き、
姫の滑らかな頬に一滴残った涙を優しく拭った。
姫はにっこり笑うと六つになりに精一杯のお礼を口にしたのだった。