「鬼と姫君」 1章-2
「そなたはどちらの姫じゃ。供も付けず黄昏時をさ迷うておったら危なかろう。
屋敷へ早うお帰り」
男の子の言葉を聞くと姫はやや乱暴にかぶりを振った。
折角、月の精のような美しい人と出会ったのにもう別れてしまうのが、
残念でならなかった。
衣の裾をぎゅっと握り、目に再び涙を溜めて唇を噛む姫の姿をみて、
男の子はひとつため息をつくと、姫の目の高さにしゃがみ頭をを撫でながら言った。
「今日はもう遅いからお帰り。
明日もう少し早い時間にここへ来れたのなら遊んであげよう。我は鬼灯丸じゃ」
姫もそこで漸くこっくり頷いた。
撫でられたのが心地よかったのと、頭に置かれた佳人の白い手は温もりを帯びていて、
姫と同じ血潮の流れを確かに感じたからだった。
その日はそのまま、男の子に手を引かれ屋敷の前まで送られた。
父母はまだ来客の相手をしており、乳母は流石に姫の不在に気が付いたが
一時のことであったのでそれほど咎められることはなかった。
戻った途端、寝付いていた二の姫が泣き出したからかもしれない。
いずれにせよ、その時の姫は既に明日の約束で心が躍るようだった。
翌日、姫は目覚めたときから、もう待ち通しかった。
問題はどのように屋敷を抜け出すかだ。
二の姫が頃合い良く機嫌を損ねてくれればいいが…
などと考えを巡らせていると、やがて日が傾いてきた。
野の花を摘みに行きたいと乳母にせがんだ。
最初こそ反対したが、二の姫ばかり構っている後ろめたさか、
遠くに行かないことと、夕暮れ前には必ず戻ることを約束させると許してくれた。
喜色満面、足取りも軽く姫はようようと屋敷を出た。
昨日、蛇に遭遇した場所より少し手前の、松虫草が群生しているところで
彼人を待つことにした。
風に揺れる小さな花は可憐で姫は思わず手を伸ばした。
一つ、二つと手に摘み、やがて夢中になって気が付くと大分時が過ぎたようである。
姫は途端に不安になった。
本当に来てくれるだろうか…。
松虫草が片手一杯になったとき、不意に姫の視界が暗くなった。
温かな手が両目を覆っている。
「だあれだ」
笑いを含んだ穏やか声が突然降ってきた。
「鬼灯丸!」
ぱっと手が離れると姫は振り向いてにっこりした。
「よう憶えておくれじゃ。姫は賢いな」
日の光の下での鬼灯丸の髪の毛はきらきらと輝きを放ち、
夕暮れ時とはまた異なる美しさだった。
明るい日の下では瞳も桃色に変化して見える。
通った鼻筋と色付いた濃き紅の唇は気品があり高貴で、
やはり天人のように麗朧と美しい。
「さあ、何をして遊ぼうか」
そうして姫と鬼灯丸の逢世は始まった。
二人でいるときは大抵、花を摘んだり、
珍しい鳥や虫などを見付けては飽かず眺めたりした。
時折顔を見合せては微笑み、あまり会話はしなかった。
声に出さずともただ二人でいるだけで十分だった。
鬼灯丸は気まぐれで、毎日のように現れることもあれば、
10日を過ぎても姿を見せないこともあった。
その度に姫はやきもきし、不安になったものだ。
そうして春が駆け去り、夏と秋が過ぎ、やがて冬を迎えた。