『六月の或る日に。1』-7
『じゃあさ、夏樹、先に帰っていいよ。』
何も気にしてない、何事もなかったかのように、あたしはそう口にした。
『あたし、まだ見て回りたい所あるし。さ、出よう。』
こんなに力を入れて笑顔を作ったのは、初めてかもしれない。あたしはまだ半分くらい残っているコーヒーを持って、立ち上がった。
『え、おい、それなら俺も…。』
そんなあたしを見て、夏樹も慌てたように立ち上がった。
『あーいいよいいよ。初めから一人で行こうと思ってたからさ。』
『でも…っ。』
まだ渋る夏樹。そんな優しさ、いらないのに。
『いいってば。彼女のとこ、早く帰ってあげな?』
振り返って、あえてきつめに言った。夏樹は怯んだように立ち止まった。
何であたしがこんな言葉、口にしなきゃならないんだろう。
冷静な頭で、そう思ったけど、夏樹を帰すにはこれが一番いい方法だと思った。
『いや、でもあいつにはちゃんと言ってあるし…。』
それでも渋る夏樹に、酷くいらいらした。
ちゃんと言ってあるって何をよ。
あたしと別れるってこと?俺はもうお前だけだって?
聞きたいけど、聞けない。
『それでも不安になるのが女の子だよ。だから早く帰ってあげな。』
夏樹は困ったように目を伏せた後、静かに頷いた。
『…じゃ。』
そう言って、きびすを返そうとした。
『なぁ。』
でも、出来なかった。
『春美、最後に聞いていい?』
夏樹が、あたしの腕を掴んだから。
今日初めて、あたしの名前を呼んだから。
その温もりも、その声も、何も変わっていなくて、まだこんなに、心だって揺れる。
距離だって、こんなに近いのに。
それでも、あたしはもう、この手を離さなくちゃいけないんだ。
『…なに?』
夏樹の視線を受け止めきれずに、俯いた。
勘違い、してしまいそうだったから。
『………俺のこと……、ちゃんと、好きだった……?』
弱々しいその声に、顔を上げた。
あたしの大好きなその瞳が、揺れていた。