「穴」-8
「それじゃあ、僕は部屋に戻って荷物まとめてきます。」
「ああ、そうだね。隣の部屋に入らなければ君に害が及ぶことはないから、安心してくれ。すまないね。」
僕は軽く頭を下げると、立ち上がり玄関へと向かう。
大家さんも丁寧に玄関先まで見送りに出てきてくれて、何かあったら直ぐに連絡を入れるようにと僕に念を押した。
こんなことがあってもやっぱり、この人は良い人なんだろう。いつかは救われて欲しい。そんなふうに考えながら、玄関を出ると、ふと庭の桜の木が目についた。
咲き誇り、風に揺れるその花は、驚くほどに鮮やかな色をしている。
それはもう、今までに見たこともない、見事な・・・
「・・・ああ、うちの桜は美しいだろう?」
そう言い、大家さんは桜を見つめる。
「この桜は私の救い・・・私の罪を吸い取って、美しく昇華してくれる・・・。」
遠い目をしてぼそりと呟くその声には、抑揚が感じられず、なぜか背中がゾクリとした。
あの桜の下にはもしかして・・・
僕は自分の想像に恐ろしくなって、逃げるようにして帰った。
それからすぐ、僕は新しいアパートへ引っ越した。
もちろんあのアパートには近づいたりしていない。
だが、時々ふと、彼女ね言葉が頭をよぎる。
一緒にイこう?
一緒に逝こう?
彼女は今、1人で淋しいのだろうか?
だから、体を張ってまでも「隣の部屋の男」の気を引こうとしていたのか・・・
僕はつい考えこんでしまった。
しかし、それから、僕は、それらのことを全て忘れることにした。
僕には何もしてやれない。
彼女も大家さんのことも、救ってあげることは、僕には出来ない。
だから・・・僕は記憶から消すことを選んだ。