『氷輪の徒花』-3
少年の名前は曹丕といった。
いまや天子をも手中に収め、中原の覇者となった曹操の嫡子。
天下はやがて曹操のものとなり、そしてゆくゆくはこの曹丕に受け継がれる。
なんの苦労もせずに、曹丕は全てを手にしている。
私も、曹丕が手にしているモノの一つだ。
「甄よ。良いことを教えてやろうか」
私の上に覆いかぶさった曹丕が耳元でささやく。
これだけの交合の中、汗一つ浮かばぬ美しい顔。
対して、私は淫らに喘ぎ、火照る身体を持て余す。
「お前の元夫、袁煕の首が送られてきたぞ」
私の中に彼が一層深く腰を打ちつける。
跳びかける意識。
「遼東の公孫康がな、父上の機嫌をとる為に袁煕の首を撥ねた」
動きを止めた曹丕の指が唇に触れる。
冷たい指だった。
「見るか? 袁煕の首を」
呼吸を整えながら、少しだけ考える。
かつての夫。
自分を初めて抱いた男。
「…見とうございませぬ」
正直、興味がわかなかった。
曹丕の口が吊り上る。
その両手が伸びて、ゆっくり私の耳を塞いでいく。
「それでいい」
唇の動きで、彼がそう言ったのがわかった。
ゆっくりと降りてくる曹丕の唇。
それが私の唇に触れたとき、再び快楽が始まった。
獣のような曹丕の腰使い。
一瞬で果てが見えては、過ぎ去っていく。
曹丕の掌に耳を覆われて、外の音が全く聞こえない。
聞こえるのは、絡まりあう私と曹丕の舌の水音だけ。
自分の中で何かが崩れていく。
絶対に失ってはいけない何かが。
あの日。
袁家の屋敷が落ちた日。
それから、私は毎晩曹丕に抱かれた。
屈辱の日々。
年端も行かぬ少年に、身体を弄ばれる不快感。
それなのに―。
私が彼のものになってどれくらいの頃だろう。
一月、いや十数日。
吐き気がするほど嫌だったはずの、曹丕との交合。
それを待ちわびている自分に気づいた。
その頃から、私の身体は曹丕に逆らえなくなった。
でも、心までは―。
そして、私の心は分裂した。
曹丕にしがみついて、嬌声をあげる私。
それを離れたところで冷静に見つめている私。
どちらが真実の自分なのか。
「甄よ。何を望む?」
突然、曹丕に問いかけられる。
「何を、でございますか?」
曹丕の問いの意味を理解できない。
「お前が何を望んでいるのか、私にはわからないのだ」
そう言われて、気づいた。
私の望みは何なのか。
毎日、毎日男に抱かれるだけの私の人生。
そのなんと虚ろなことか。
「お前の望みはなんでも叶えてやる。だから」
やさしい抱擁。
「俺を愛せ」
曹丕が首筋に口付けをする。
私の望み。
唯一それがあるとしたら―。
「もう、愛しております」
虚しい嘘だ。
私は未だかつて誰も愛したことはない。
「そうか」
そう呟く曹丕の顔に、わずかな揺らめきが走る。
氷輪の月に霧がかかるように。
この男が私の望みに気づくまで、あと何年かかるのだろう。
それまで、ずっと私は分裂した自分を抱えて闇を彷徨い続ける。
それでも、仕方ない。
私は、徒花なのだから。