「氷点下の十字路」-1
「どうして旅に出なかったんだ」
不意に誰かが僕の耳元でそうつぶやいた。
あれは夏の小樽。港祭り。八月のどんづまりの倉庫の二階。タバコの煙にジャズのテナーサックスが淀んでいた。まるで深海魚のような気分だ。頭が痛くて息がつまってきた。ほの暗い急な階段を降りて戸を開ける。夜風が僕の肩とすれ違う。その時、あの声がした。月がスプーンのように光っていた。海が濁って泡を吹いていた。浜辺は熱く、海風は焦げ臭い。銀河の彼方から闇を運ぶ函館本線の長い長い車両。「なーんだ、おまえ、生きてたんじゃないか」。人込みのざわめきから、ふと懐かしい声が聞こえたような気がした。
寝つかれない夜が続く。どうしてなのかはわからない。窓が凍りついていて開かないせいかもしれない。今はあまり本を読みたいとは思わない。ただ北へ北へ、あるいは南へ南へ、赤錆びた肩をハンガーから降ろし夜汽車の背中で冷やしたい。街の名前や移ろいゆく夜の色をそらで覚えたい。地平線を自分の家にしてみたい。小鳥の鳴き声を目覚まし時計にしたい。そしてできることなら、懐かしい匂いのする女の人が僕の隣に住んでいるといい。夏の日暮れのように涼しくて、どこか寂しい足音を運ぶ人。夕暮れの坂道、真夏の通り雨の向こう側、人けのない駅のホームが似合う人。夜の向こう側に向かっていつも朝の歌を口ずさんでいる、髪の毛のサラサラした人がいい。古い公園のベンチと二人だけの木陰があるといい。ときどき何となく感じあえたらそれでいい。夜が明けたら、僕はまた旅に出る。そんなとき、背中の方でやせっぽちの犬が吠えたような気がして、ふと振り返ってみたくなる。ザアザア雨の降る古い蓄音機に、戦前のシャンソンかなんかかけてみる。イヴォンヌ・ジョルジュの『水夫の唄』がいい。地球のまるみでつくった海の見えるテラスで、夜風とチークダンスを踊ってみたい。
この街にはもう六年も住んだ。が、僕はいまだにこの街の正体を掴めないでいる。僕の投げやりな視線は中空にひっかかったまま、この街の心に届かない。ときどきバラバラにされた死体や凶器のピストルなんかがこの街の下水を流れていく、そんな夢を見る。この街は有罪も無罪も立証できない。いくらマッチをすっても、火は永遠に向こう側に届かない。炎が見えない。夜の歩道で高層マンションがすすり泣いている。四角く切られた窓の向こう、暗い台所でまな板だけが音をたてている。役者のいないステージ。それになんだか縮こまっているみたいだ。もしかすると、縮こまっているのは僕のほうなのかもしれないけど。乳母車の中で赤ん坊が縮こまっている。駐車場では赤いスポーツカーが縮こまっている。エレベーターで男のネクタイと女のスカーフが縮こまっている。夜風と夜風の狭間をハイヒールの踵が通り過ぎていく。雪の紋章。たらふく飲んでたらふく食って、札幌の街が寝息をたてている。その大きな腹に僕は何度もぶつかった。
「ねえ、東京がなんで好きなの?」
喫茶店で女の子が僕に聞く。
「別に好きってわけじゃ。砂漠みたいな街だよな」
月並みな答えを返してやる。でも砂漠って、そんなにつまらないものでもない。蜃気楼がいっぱい見えるし、パキスタンの国旗のような月や星も見える。毎日がバカ騒ぎで、そのくせ変に醒めている。赤い唇、渇いた喉、人間の形をしたスーツ、シャンデリアを運ぶ馬車……。いつに間にかどこからかいろんなものが集まってきては、瞬きした瞬間にすべては砂の夜へと消えてしまう。あとからいくら風の痕跡を探し歩いても、口を揃えて「もう旅に出たあとだ」と言われるだけ。あげ底のカラクリを暴くと夜明けの新宿が透けて見える。男と女が逃げるようにして朝一番の汽車に乗る。
「じゃあ帰らないの?」
「帰るさ」
僕は答える。でも、もう帰る所なんてない。あの砂漠の街は津軽海峡の夜にかすんで、淡い漁り火になってしまった。
ビルディングが立ち上がって乗り合いバスをにらみつけている。アスファルトは凍てついた体を横たえ、交差点の信号を見上げている。闇の中で電線がはぐれ狼のように泣く。窓辺に咲いていた白い花がうつむいていた。
通りであてもなく原色のチラシを差し出す何本もの黒い腕。でもポケットの中には消しゴムのかす、心の影だけが風となって吹き過ぎていく。大時計に闇だけが積まれていく夜の盛り場。街は湿って、妙に重たい。
木枯らしの浸食を受けた夜の洞穴の、その入り口のあたりを僕は出たり、入ったり……。
気がつくと女の子はもういない。夜のコーヒー屋で一日の疲れを灰皿に投げ捨てる。西四丁目のネオンが心なしかすすけて見える。飲み屋が暖簾を降ろし、竹箒の音が夜のすすきのを掃いている。凍える二月の空に僕はそっとつぶやく。
「どうして旅に出なかったんだ」