侵蝕-1
---バタン、とドアが閉まる音がした。
玄関の方向に耳を澄ます。
「ただいま」という穏やかな声が聞こえず、私は身を固くする。
鞄を乱暴に置く音を背後で聞いて微かに手が震えるが、ここから私は動かない。
私は、逃げも隠れもしない。どこにも行かない。
突然、視界が揺れた。
体の奥で何か鈍い音がして、横に転がる。
後ろから首を掴まれて床に叩き付けられたのだと分かる。
彼は私に馬乗りになり、私の顔が平手で強く叩かれる。
涙目になりながら見上げると、逆光で暗く陰った無表情な顔の真ん中で、今にも泣き出しそうな目が私を見ていた。
---彼は、少し酒の入った夜、いつもこうして私に手を上げる。
そして、決まって彼は無言だった。
軽い時は平手打ちで済むが、拳で殴る時もあれば、物を投げ付ける時もある。
そうして朝になり、目を覚ました彼は、荒れた部屋を片付ける私を虚ろな瞳で見つめる。
私が何も言わずに彼を見ていると、やがて彼の目からゆっくりと涙が落ちる。
私に縋り付く様に手を掛けて、「ごめん」「悪かった」と謝り続ける。
酔っていたから、もう酒はやめるから、と彼は言う。
だけど、私は知っている。
彼がほんの少ししか飲んでいないこと。
酒に強く、あまり酔わないこと。
そして、彼はいつも決まって私の顔を殴る。
見えるところ、自分の目に入りやすい場所を傷付ける。
異様に広く見える部屋を見渡す。
彼は一緒に暮らし始めても、私と籍を入れようとしない。
私の思い込みかもしれないが、それは私をいつでも逃げられる状態にしているのではないかと、感じている。
でも、逃げなければならないのは私なのだろうか。
顔が痛い、体が痛い。
だけど私は、私以上に痛々しい表情の彼を見つめる。
"彼は謝る為に私を傷付けるんじゃないだろうか?"
よく、そんな風に思うことがある。
こんなに自分を責めて、罪悪感を増やして、この人はどこに行こうとしているんだろう。
放っておけない、とか、私がいなければこの人は駄目になる、とは思っていない。
寧ろ、私がそばにいることで、彼は更に自分を責めている。
痣や血が流れることではなく、私もきっと傷付いている。
しかし、罪の意識に苛まれる彼を、ただ冷静に観察している自分もいる。