多分、救いのない話。-7--9
「先生、メグちゃん、どうして!?」
「えっと。さっきたまたま偶然。あの、その、ネクタイ締めないでくれますか苦しいんですけど」
何故かしばらく詰問され(本当に偶然か実はずっといたんじゃないかとか。何を疑っていたんだ?)呼吸困難で顔が赤から青に変わろうとした頃、ようやく葉月は解放された。げほげほ。
「すみません、その。びっくりして。メグちゃんが無事で……よかった」
「あの、それなんですけど……」
先程気付いた包帯のこと。それに、神栖の、「ずっと優しいお母さんでいてくれる」という、あの言葉。
それを話そうと思ったとき、タイミング良くというか悪くというか、神栖が様子を見に来た。
「あの、どうしましたー?」
「ううん、なんでもないの、ごめんね」
水瀬先生の瞬時の笑顔に、切り替えの早さに尊敬を覚えた。
水瀬先生はきっと、大人の笑顔という欺瞞で自分の悲しさや怒りを子供にぶつけないように。おそらく教師になってからずっと、その欺瞞を続けてきたのだ。
それがどれほど難しいのか、葉月も教師だから、分かる。
「皆、心配してたんだよ」
「ほらな、皆心配してたって」
ごめんなさいです、とぺこっと頭を下げた。リボンが揺れる。
「……メグちゃん。お母さんは……?」
心もち、心配そうに。恐る恐る、水瀬先生は訊ねた。
背筋に緊張が走る。一番難しい部分だから。
だけど、神栖は晴れやかに、のんびりと。
だけど。《何か》を含んだ、ざらりとして気持ちが悪いのに何故かもっと見ていたくなるような、落着きを奪い、なのにずっと見ていたくなるような笑みを浮かべて。
「お母さんは今、お父さんと遊んでるですよ」
……え?
「神栖、のお父さんって……」
「……先生には死んだとか言いましたけど。面倒だったので、そう言ってるんですけど、本当はちゃんといるですよー」
「遊んで、って神栖を放っといて?」
「十五年ぶりの再会なのですよ。お母さんは……喜んでたです」
十五年。神栖は中学二年だから、十四歳。
神栖が産まれる前に、両親は別れているということになる。
その辺も、神栖の《傷》と関係が、
「!!?」
「あ、ぇっ!!?」
「……何処?」
水瀬先生が神栖の胸倉をつかみ上げていた。
聞いたことがないほど低い、どろどろしたマグマのような、暗く熱い声に、怒りに葉月は一瞬、呆けた。
しかし生徒の苦しそうな声に、すぐに我に返り、水瀬先生を神栖から引き離す。
「何処って訊いてるの!!」
「水瀬先生、先生! 落ち着いてください!!」
「やっぱり、やっぱり。神栖さんは、知ってた……知ってた!!!」
狂乱のように吐き出されるのは、汚泥のような暗い暗い泡の言葉。
泡は弾け、中に内包されていた醜い感情は周囲に拡散される。
「何処!? 神栖さんは、あの子は!!?」
「お、お母さんは……秘密基地にいるで」
水瀬先生はそれ以上神栖の言葉を待たなかった。
水瀬先生は車に乗り込み、(ここまで車で来ていたのか、と変な所に感心したのは、混乱していたからだと後で思う)殆ど無理矢理に神栖を助手席に乗せる。
「案内して」
「待って、待ってください!! 俺も行きます!!」
水瀬先生は、きっと自分の言葉を聞いていなかった。後ろに乗り込んでも、ドアを閉める前にアクセルを踏みだすぐらいだった。
待望が、水瀬先生の顔を歪ませていた。
神栖は、焦っている。
自分は、混乱していた。
混乱と焦燥と待望を乗せて、車はスピードを上げる。