トランス-3
いつの間にか瘴気が重く垂れ込め、生臭い匂いが鼻腔を突いた。
微かに聞こえる獣の低い唸り声。
棚田達の悪意に釣られ、妖しが姿を現したのだ。
それはいくつもの頭を持つ大きな猫の怪物で、形がまだ定まらないのか陽炎のようにゆらゆらと揺れていた。
悲鳴を上げる仲村。
妖しの姿に驚いただけではない。猫の頭に混じり、棚田達の顔があったからだ。
俺は仲村を庇いながら、ポケットから霊符(お札。三聖の名前やら星宿の名前やら救急如律令とか案外と大したことが書いてあるわけじゃない。偉い神様が命令するんで早くしろってな感じ。大雑把に言って)を取り出した。
いざという時の為に用意していた闘法用符(戦いの為のお札ね)だ。
呪文を唱え、霊符を焚焼(お札は使い道によってやり方も色々。これは焚焼符っていうんだ)すると剣を携えた小さな童子達になり、妖し目掛けて襲い掛かった。
妖しの周りを飛翔しながら斬りつける童子達。
しかし、いくつか傷を付けるものの、童子達は鋭い爪で引き裂かれ、食いつかれ、元の霊符に戻ってしまう。
形の定まらない妖しがこれほど強力なのは人間を喰ったからだろうか。
雑多な意識と恐らくはこの辺りの野良猫の霊、そして棚田達の霊。
闘法用符を出し尽くした俺は、応門符(本当は読んで字の如し、玄関に貼って邪を遮るんだけど、ここではその応用として指定した領域を仮想の家としたわけなんだ)で結界を張った。
無数の牙と爪が結界を破ろうと襲い掛かるが、応門符の結界は何とか持ちこたえる。
だが、それも時間の問題だった。
執拗な攻撃に結界の効果が切れ始めていた。そして何より、俺の後ろに隠れていた仲村が瘴気に当てられてかなり衰弱している。
このままにしておけば取り返しのつかないことになるが、闘法用符は在庫切れ。
せめてもっと強力な闘法用符を持っていればと悔やまれる。
或いは、自在に神降ろし出来れば。
その時、とっさにある事が閃いた。
俺は後ろでぐったりしていた仲村を振り返り、その華奢な肩を抱き寄せた。
「仲村、御免!」
自棄になった俺はそう叫び、キョトンとしている仲村の柔らかな唇に自分の唇を重ねた。
甘い痺れが俺の背筋を駆け上がり、頭の中が真っ白になる。
次の瞬間、痛烈な平手打ちが俺の頬を打った。
だが、既に俺の中には剣の護法が降りてきていた。
皮膚が鋼となり、背中には無数の剣が生えている。
相手が妖しなら遠慮はいらない。さながら鋼の鬼となった俺は咆哮を上げると妖しに襲い掛かった。
喰らいつく猫の頭を斬り飛ばし、爪と牙をものともせず、本体に固めた拳を叩きつける。 自分のものとは違う闘いの本能に陶酔する俺。
しかし、視界の端に見える女の子だけは傷つけてはいけないと、暴れる闘争心を必死に抑えつけた。
やがて妖しは千ヶに引き裂かれ、その姿を消した。
しかし、俺は尚も闘いを求めて猛り狂った。
吼え、地面を穿ち、塀を砕く。
そして気絶している仲村にまで襲い掛かろうとした。
あわやという瞬間、俺は最大の自制心をもって自分の体を止めた。
体中の筋肉が悲鳴を上げ、そのまま剣の護法は俺の体から離れていった。
俺は気を失っている仲村をおぶり、家まで送った。
門扉の陰に仲村を横たえると、その唇に指をそっと触れてみる。
が、物音がして慌ててその場を立ち去った。家の人が仲村を見つけてくれるだろう。
あれから俺は神降ろしをしていない。
学校で仲村と話しをすることもなかった。
だから仲村があの日の事をどう思っているのか分からない。
もしかしたら全部夢だと思っているのかも知れない。
それはそれでありがたいが、少し寂しい気もする。
ついでにいうと、妖しに喰われたであろう棚田達は失踪した事になっている。
何か事件に巻き込まれたであろうと警察が色々調べていたが、手掛かりは何も見つからなかった。
人気のない放課後の事で、その上、瘴気は人を不快にして寄せ付けないので、幸いにも俺と仲村の事を知る者はいなかった。
その後、俺は二度と仲村の前で神降ろしをする事はないと思っていた。
しかし、思わぬ事から俺と仲村は事件に巻き込まれ、俺は護法を呼ぶ事になるのだが、それはまた別の機会に。
終。