伊藤美弥の悩み 〜初恋〜-14
月が夜道を照らす頃。
紘平は、笹沢家の門前にいた。
どの部屋にも明かりが点いておらず、紘平はドアチャイムを鳴らすのを逡巡する。
だが瀬里奈は家にいると連絡が取れているのだから、無理に引き伸ばすのは下策でしかない。
紘平は深呼吸して何があっても動じないための覚悟を整え、ドアチャイムを鳴らした。
ピンポーン……
『はい?』
かんぬきのかかった門扉脇の塀に取り付けられたインターホンから、馴染みのある声が流れ出る。
うほんっ、と紘平は咳払いをした。
「あー、瀬里奈か?」
『紘平……』
向こうの瀬里奈は、息を飲む。
『待ってて』
手短に言うと、瀬里奈はインターホンを切った。
ガチャッ
少しして玄関のドアが開き、瀬里奈が顔を出す。
「……戻ってきたの……」
言いながら門扉へ歩み寄り、瀬里奈はかんぬきを外して紘平を玄関まで招き入れた。
瀬里奈の瞳は喜びに溢れていたが、眉は悲しそうに歪められている。
「高崎君が、離さないかと思ってたんだけど……」
かつて龍之介に敵対者と見なされた経験のある少女は、そう言って肩をすくめた。
「で、うちまで何をしに来たの?」
わざとつっけんどんに、瀬里奈は尋ねる。
「冷たいなぁ、ジブンは」
紘平は、わざとらしくそう言った。
「自分の彼氏があたしの友達レイプしかけた事を土下座して謝りに行って帰って来た時、普通にこやかに迎え入れるのは難しいと思うわよ」
言い返された紘平は、肩をすくめて降参を示す。
「俺……赦して貰えたか貰えとらんか、めっちゃ微妙なとこやで」
その言葉に、瀬里奈は眉をひそめた。
「昔の美弥なら、赦しとらんやろ……けど」
くす、と紘平が笑う。
「今の美弥なら、赦してるんかな。あの、龍やんが変えてもうた無防備な美弥なら」
紘平は手を伸ばし、瀬里奈を抱いた。
「……ねぇ」
瀬里奈は天井に視線を巡らせ、呟くように問う。
「あたし、聞いてないんだけど?あたしが不倫してた事、赦せるのかって……その、答」
ふ、と紘平は笑った。
「赦せる訳、ないやんか」
「……ッ!!」
その一言で、瀬里奈の目に涙が盛り上がる。
やはり、赦してくれないのかと。
「今も追い掛け回されとるんならともかく、その男とはとっくに切れてんのやろ?ほな、俺がどうこう言える筋合いはどこにもないやん」
「紘平……」
こぼれ落ちる程に涙が滲んできたのを自覚した瀬里奈は、瞼を閉じて紘平に抱き着く。
「よしよし。つらかったんなぁ」
紘平は、瀬里奈の頭を優しく撫でた。
「ば……かっ。つらく、なんか……っ!」
震える声で言う瀬里奈の頭を撫でつつ、紘平はにやにや笑う。
「ほいほい。そういう事にしときまひょ」
瀬里奈の背中をぽんぽん叩き、紘平は不意を突いて顔を上げさせた。
驚く程に長い睫毛から、大粒の涙が次々と伝い落ちている。
「っ……!」
狼狽する瀬里奈に対し、紘平は優しく笑いかけた。
「おぉ、見事に泣いとらんなぁ?」
ぷいっと視線を逸らす瀬里奈に、紘平は囁く。
「泣いとらんから、キスしたる」
囁くなり紘平は、顔を傾けて瀬里奈にキスした。
「……!」
驚いて目を見開き、瀬里奈は硬直する。
紘平が唇を離すと、瀬里奈は呆けたように突っ立っていた。
しかし……キスの威力か、涙は止まってしまっている。
「ほら、もう泣いとらんやろが」
紘平は、二度三度とキスを繰り返した。
「瀬里奈ぁ……」
苦笑混じりに、紘平は囁いた。
「ジブンもたいがい無防備やなぁ。俺、このままやと襲うでー?」
それを聞いた瀬里奈は、はっとする。
「まぁだ付き合い始めたばかりやし、そっちに進むんはちぃと早いんやないかなぁ?」
「……そうね」
瀬里奈は微笑み、紘平の頬を手で挟み込んだ。
そして、思い切り熱烈なキスをする。
「うひゃ……」
キスで骨抜きにされてしまった紘平は、玄関の床に座り込んだ。
「立って帰れる?」
瀬里奈の質問に答えず、紘平は視線を逸らす。
足腰ではない体の一部分がタッてしまったのを、見透かされているような気分だった。
瀬里奈はしゃがみ込み、紘平の耳元に唇を寄せる。
「あんたが欲しいって言ったら……どうする?」
極め付けにセクシーな声が、紘平の心をガンガン揺さぶった。
「まっとうな恋愛は久しぶりだから、待とうかとも思ったんだけど……あんたがその気なら、あたしはもう無理。待たない」
きっぱりはっきり口説かれた紘平は、目を白黒させる。
ややあって、紘平は瀬里奈を抱き締めた。
「ジブンがその気なら、俺だって待つ気はあらへん。部屋、行ってええか?」
それを聞いた瀬里奈は、くすりと笑う。
「もちろんよ……でも、シャワー浴びてからね」