『LIFE LINE』後編-11
「先生のアパートの前で、知らない男の人と出くわしました」
と僕は言った。
先生の表情が、少し強張った。
「ハニワ屋のご主人から、その人と先生の関係を聞きました。聞いてて、あまり気分のいい話じゃありませんでした」
自分で言いながら、沸々と湧き上がる怒りを止められなかった。憎悪にも似た激しい怒りの矛先をどこに向ければいいのか分からず、ご主人や、坂本、果ては明菜にまでぶつけていた。
幼い駄々にもにたこの感情は、僕が無力であることを、僕自身が証明していたのだろう。
「こんなこと言うのは、失礼かもしれませんが……」
僕は先生の方に向き直った。
でも、先生は目を閉じて、顔をそむけた。
こちらを見ようとしなかった。僕は言いかけた言葉を遮られ、固くなった表情を何とか緩めてもう一度話しかけた。
「先生……」
「言わないで」
消え入りそうな小声で、先生は言った。
「お願いだから、その先は言わないで……」
僕が何を言わんとしたか、先生には分かっていたのだろうか。
はっきりとした拒絶より、更に胸が痛みを上げた。
「ごめんなさい」
先生はそう言って、顔を伏せたまま黙ってしまった。
長い長い沈黙が、僕らを包んだ。空虚な時間がしばらく続いていた。
風が、流れだした。
夜空に浮かぶ上弦の月がちらりと顔を出し、次第に雲に隠れていく。
そこから漏れていた蒼白い月明かりも、徐々に光を失っていき、灰色の空がさらにその深みを増していた。
やがて、月が完全に消えてしまった頃、僕は思わずこんなことを言っていた。
「僕の父親はカメラマンなんですけど……」
自分でも驚いていた。
口を滑らせた訳でもなく、沈黙に負けた訳でもなく、僕はあっさりと、一番話したくなかったあの人のことを喋りだしたのだ。
「僕は父さんの写真を、一度だって見たいと思ったことはありませんでした。周りがどんなにはやし立てても、世間の評価が上がろうと、それは同じことです。僕には父の仕事が、どうしても理解できませんでした」
「……どうして?」
顔を上げずに、先生はそう反応した。
「その写真が、僕を見てなかったからです」
「見て……ない?」
「父さんの撮る写真は、いつも自由で、固定された概念はなく、これといった被写体がなかったんです。それを感性として捉えられるなら、僕は素直にあの人のことを尊敬していたのかもしれない。
でも、僕にはそれが、ただの自分勝手な自己主張にしか見えませんでした。ろくに家にも寄り付かずに、家族の時間を失ってまで、しなきゃならないことだったんでしょうか。
何年たっても、何年たっても、たぶん、あの人の眼に写っているのは、自分だけなんです。」
「寂しく……ないの?」
先生はそう言って、やっと顔を上げた。
今まで聞いたことのないほど、誰かに求めるような声だった。