父ちゃんの背中-1
「親父、ご飯、ここに置いとくぞ」
木で作られた漆塗り風の正方形のテーブルに、真治は静かにお盆をのせた。
油揚げと大根の入った味噌汁に、焼き鮭、父の田舎からおくられてきた炊きたての新米のコシヒカリ。
大学生になって半年、十九歳になったばかりの真治としたら上出来の朝御飯だろう。
父、直治からの反応は…ない。
直治は工場で夜勤の仕事をしている。早い時は夜中の三時、残業がある時は朝六時頃まで仕事だ。
真治が朝食を作り、家を出る時間に起きていたことなど、母が六年前に亡くなって以来、一度たりともない。
それでも真治が毎日かかさず朝御飯を作るのは、直治が口癖のように
"男は台所に入るものではない"
と言い、全く食事を作ろうとしないせいだ。真治も男だが、そんな理屈の通用する相手ではない。
そして、真治が毎朝御飯を作るのは、亡くなった母、多恵子との約束があるからでもある。
―真治十二歳の春
「母ちゃん」
まだ幼さの残る声に呼ばれて振り返った多恵子は、頬がうっすらと染まりいつもより元気そうに見えた。
「さっき、お風呂上がった所だったんよ、もう少し早くきてくれたら、真ちゃんに髪乾かして貰えたのに」
残念そうに多恵子は笑う。
癌治療専門の病院に入院する多恵子にとって、真治と触れ合える時間は数少ない楽しみであり、刺激なのだ。
何しろ病院の御飯は味気がなく、窓から見える景色もさほど変わることがない。
「なんだか懐かしいわね」
木造二階建ての自宅を、多恵子は、直治に支えられながら見上げた。
癌は多恵子の豊満な左乳房を奪っただけでなく、リンパ節や肺に転移し、施しようのない状態になっていた。
"余命三ヶ月"
そう告げられたのは病院の窓から見える、イチョウ並木が色付いた頃だった。
多恵子が帰ってきたことで真治は喜び、直治は口を一文字に結んだまま俯き、黙っていた。
「直さん、ごめんね」
"男は台所に入るものではない"
結婚する以前からそう言っていた直治は、多恵子のために料理を作るようになった。
「出来たぞ」
直治が多恵子の部屋にある、木で作られた漆塗り風のテーブルに、新聞紙を置いた。鍋敷き代わりである。その上には鍋いっぱいの雑炊。直治が作ることが出来るのは雑炊だけだ。
「また雑炊?母ちゃんがくるまでは、インスタントラーメンばっかだったから、ちょっとは進歩したけどさ」
やんなっちゃうよなと、拗ねた顔をする真治を多恵子はたしなめる。
「私、直さんの作るお雑炊好きよ」
にっこりと笑う多恵子に照れたのか、直治は
「食え」
それだけ言って雑炊をよそった。
その手は洗っても落ちない機械油の染み付いた、到底おたまなど似合わない手だった。
幾日か過ぎた日の明け方、直治は珍しく定時に仕事が終わって帰宅した。
まだ丑三つ時だというのに、多恵子の部屋からは
"直さん…直さん"
小さいながらも呻くような声がするので慌てて近付く。
しかし、直治の本能はそれが呻き声などではないとわかっている。
直治は真治より二十五歳上、多恵子とは五歳違う、大人の男なのだから。
襖からそっと覗くと、普段は本を読むために使うスタンドライトが多恵子の白い肌を照らしていた。
寝間着にしている浴衣が捲れ、俯せになっている多恵子の肉付きの良い尻が見える。
後ろからまわされた多恵子の右手はせわしなく動き、襖からのぞく直治の耳にぴちゃぴちゃと感じている証しをしらせる。