月夜×殺人犯×二人きり-1
「寒い」
男は呟いた。
否、正確には呟きは声にはなりきれなかった。掠れた声は、扉の隙間から吹き込む風に消されたからだ。
男は声すらまともに出ぬ程に、疲労困憊していた。
此処に籠ってどれ位時間が経ったのだろうか、男にはそれすらも分からなかった。
唯一の判断材料は入り口から洩れる太陽の光で、もう二日は此処にいるのだろうと憶測をたてている。
「寒い」
もう一度、声に成らざる音が隙間風に消されていった。
男は考える、何時までこうしているのだろうか、と。
――――――――
「じゃあ母さん明日も来るからね」
「えぇごめんね毎日」
男の朝の日課は母親の見舞いだった。
その日も口癖のように謝る母親の言葉に、男は呆れた表情で「それは言わない約束じゃないか」と返す。
男は真面目な人間だった。
それは周りの人間の殆どがそう認め、評価している。
しかしそれは自主的なものではない。男は真面目に成らざるを得なかったのだ。
「やぁ今日もお母さんのお見舞いかい?毎日偉いね」
白衣の医師が廊下で男に声を掛ける。男は慌てて手を振った。
「そんな当たり前のことですから。では仕事があるので」
「あぁ頑張っておいで」
医者は複雑な表情で男の背中を見つめ、呟いた。
「若いのに偉いなぁ」
男はまだ若い。
世間の流れで行くのならば、勉学に励んでいてもおかしくない年齢である。
けれど現実はそうさせてはくれなかった。痩せた男の背中は、母親の命を背負っているからだ。
男が十二の時に母親が倒れてから、治療費や食費生活の全てが男の背中にのし掛かった。
父親はいない。
顔どころか、生きているのかさえも知らない。
『僕のお父さんはどうしていないの?』
母親がまだ健康で働いていた頃。幼少の男がそう聞いても返事はなかった。
母親の困り果てた表情に、言ってはならない言葉なのだと幼さ心に理解し、口を噤んだ。
「おはようございます。今日も宜しくお願いします」
「あぁおはよう、今日も頑張れよ」
病院から、三十分程歩くと小さな工場がある。
防音の役目を果たしていない、ひび割れた薄いコンクリートの壁。雨漏りのするトタンの屋根。
見た目がボロであれば、中の機械は輪をかけてオンボロだ。新しい機械を買う資金もなく、壊れては修理を繰り返す見た目も中身も貧相な工場。
男はそこで毎日、身を骨にして働いていた。
病の床に伏せった母親を看病し、治療費を稼ぐ為に朝から晩まで働く男。
周りの人間は「可哀想」とも「不憫」とも思う。それでも尚、男が笑顔を失わずにいる姿を見ると口には出来ず。ただ「真面目だ」と言うほかになかった。