月夜×殺人犯×二人きり-2
苦しいかと言われれば、苦しいと答えるだろう。
辛い?と問われれば、頷くだろう。
けれど、逃げ出したいかと誘われれば、男は首を横に振るだろう。
男は現状に満足していた。
母がいる、帰る家がある、職もある。満足には遠いが食事もとれる。
男はそれで充分だった、決して他は望まない。
現状を下回らなければ、それで充分だった。
―――けれど現実とは厳しい。
ある日突然、『変化』は唐突に襲ってくる。
その唐突さは、まるで真夏の夕立のようだと男は思う。
でも雨のような気軽なものではないな、と悲壮な表情の医者を視界の端で捉えながらそんなことを考えた。
その日はとても寒かった。男は使い古した麻の上着を羽織って、いつものように母親の待つ病院へと向かう。
「君のお母さんはもう長くないだろう」
病室へ着く前に担当医に声を掛けられ、そう告げられる。同時に、延命治療をするには男がいくら働いても程遠い大金が必要だ、とも。
「酷なことを言うが、どうするか近いうちに決めてくれないか?」
医者の言葉に男は大した応対も出来ず、ただ「そうですか」と返すしか出来なかった。
結局、その日は母親を見ると泣いてしまいそうで病室には行く事が出来ず、早めに職場に行くことにした。
医者の言葉が男の頭の中で、ひたすら反芻している。
重い足取りで職場へ着くと、今度は工場長に声を掛けられた。いつになく神妙な顔つきが男の心をざわつかせる。
「突然なんだか実は……ずっと前から経営難で、とうとう機械を差し押さえられてしまった。工場は閉鎖しなければならないんだ。……すまないな」
工場長は経営者でもあり、当時年端も行かない未経験者だった男を拾ってくれた。
年と共に増えた白髪頭で深々と頭を下げる。
そのまま頭を垂れたままの姿に男は何も言えず、ただ取り繕うように答える。
「あの……気にしないで下さい。今までありがとうございました」
「次の職の当てはあるのかい?」
「はい多分どうにかなります」
男は嘘を繕った。
本当は職の当てなど何処にも無い。けれど恩人に心配は掛けられまいと無理をした。