和州記 -宵二揺ルル紫花--8
「あいつ…それが好きで、お前に『一紺』て名付けたんだとさ」
「あの蘇芳にしちゃ、やけに洒落てるだろ?」
言って、彼女は一紺の頭を軽く叩いた。
一紺は、蘇芳のことを思い出したのだろうか。
乱暴者で好色で、そのくせ人が良くて。
自分の親であり、兄であり、師匠であった、かけがえのない――。
彼はどう表情を浮かべていいのか、困ったように紅梅を見つめた。
「あんたを哀しませようって思って言ったんじゃないんだよ」
そう言って紅梅は笑った。
「蘇芳がくれた名前に人生。嘆いてばかりじゃつまらないだろ?」
その言葉に、一紺は少しだけ俯かせていた顔を上げる。
何も言わず、紅梅は優しげな微笑を口元に湛えたまま、目だけをちらりと竜胆へ向けた。
きっと――竜胆が紅梅に持ちかけたのだろう。一紺が何ごとかに不安を抱えていることを。
そこでようやっと、一紺も頷いて笑みを浮かべる。
「姉さんも…竜胆も、ありがとな」
そして傍らの竜胆に視線を向けると、彼ははにかんだような表情を浮かべて言った。
「悩んでる俺なんて、らしくないわ」
本当にらしくないよ、と紅梅は煙管の雁首で一紺の頭を打った。
鈍い音がして、思わず一紺は頭を押さえてもんどりを打つ。
「くそ生意気でやんちゃ坊主のあんたが悩んでる姿なんて、私からしたら信じられないね」
まあ、それだけ一紺も大人になったってことか。
誰かも言ったような言葉を吐いて、紅梅は目を細めた。
「蘇芳みたいに何にも考えず、楽しく生きてみな」
だけど、と紅梅は付け加えた。
「蘇芳みたいに女を泣かすんじゃないよ」
言って再びちらりと竜胆に視線を向ける紅梅。
一紺は力強く頷いて、いつもの無邪気な笑顔を見せた。
「ああ、勿論や」
「――また雲が出てきたな…」
「折角、夕暮れ前に発ったのに」
紅梅と話した後、一紺は縹を発つことを決意した。
もう少し此処にいればいいのに、いっそのこと深縹の村に腰を落ち着けてしまえばいいのにと紅梅は言ってくれたが、二人は首を横に振った。
あてのない旅は二人の始まりであり、大きく言うならば人生のよりどころとなっていた。
勿論苦しいことも辛いこともあるけれど、それ以上に喜びや楽しみがある。今更やめるわけにはいかないと一紺は言って笑う。
夕暮れ前に発ったのは、紅梅の話を聞いた竜胆が、縹山の八合目から見える宵の景色を見たいと言ったからだ。
この男に一紺と名付けるほどの見事な空を、彼女は見てみたいと強く思った。
「なら、雲が晴れるまで待てばええ」
一紺は鷹揚に言って笑い、ゆっくりと着実に一歩を進めていた。
その面に、もう曇りも翳りもなかった。
縹山の八合目。
未だ雲は晴れていなかった。
「気長に待とう」
二人は道から外れた山の斜面に横になっていた。
眼前にはすすき野。彼等の寝転んだ、あまり木の生い茂っていない背の低い草だらけの斜面には、秋の草花がそこ此処に咲いていた。
不意に上体を起こし、足元に咲いた青紫色の花を見つめながら、一紺が口を開く。
「何や、吹っ切れたような気がするわ」
そう言って一紺は、静かな風に揺れて微かにざわめくすすき野に視線を移した。
「俺な、先のことが不安になって怖くなって、足元や後ろばっか見てた。でもそれって考えてみれば、しょーもないことやねんな」
「ほんま思うわ。嘆いてたってどうにもならんてな。それに、失ったもんもあるけど、俺には色んな人が付いてんねん。鳩羽の兄貴に紅梅の姉さん、茶屋の皆…」
それに、と一紺は続けた。
「お前と俺とが此処におる。それだけで十分て…そう思えんのや」
そっと、横になった竜胆の顔を撫でる。
微笑む彼女の身体をゆっくりと起こし、一紺は後ろから抱きすくめた。
ありがとう、と一紺ははにかみながら言い、そして彼女をより一層強く抱きしめた。