多分、救いのない話。-6--8
「――――」
ナイフが火口から離れた時、ナイフには血は……ついていなかった。
「懐かしいな、それ」
答える火口の声も、いつもと変わらない。
「なんだ、覚えていたの?」
悪戯っぽく笑うが、実際には本物のナイフかもしれないという思いはあった。だけど、あの返事をしたのは、火口ならの決意表明。
「私は演劇部で、貴方とあの人は映研だったわね」
彼女はナイフの刃をさほど力を入れず、柄に押し込む。放すとバネ仕掛けで刃が戻る、ギミックナイフだ。大学時代に使った小道具。
「……あいつ、映画が好きやったからな」
名前を言いたくもない。しかし、彼女はそんな感情とは無頓着に。
「演劇部と合同で映画を撮ったのよね。私が主役。初めての主役だったけど」
彼女の存在感は、カメラを通しフィルムに映されると、より存在感を増した。演技の経験はなかったが、美貌と、それを上回る天性の演技力は、演劇部と映研の古株のやつらも圧倒し、あっという間に主演女優に決定した。
持ち前の観察力と洞察力、理解力と度胸で、どんな役でもこなす彼女には、当時大手の芸能プロダクションがスカウトに来た。それぐらい、演技はずば抜けていたのだ。
だから、もし当時から壊れていたのだとしても。見抜ける人間は、いなかった。
「ちょっと慈愛に当時の話をしたことがあったのだけど」
苦笑が浮かんだ。
「そのせいか、映画が好きになって。私は興味をなくしたけど、でもお願いされる時もあったわ」
「へー。例えば?」
「物真似とか」
……メグちゃん、凄いことやらせるなぁ。
「今流行りの芸人さんの……名前なんだっけ」
本人はお笑いに興味がないせいか、名前自体は覚えていないようだ。
「そうそう」
リビングボードの上に、何枚かDVDのパッケージがあり、それを見せてきた。
「慈愛が中身だけ持っていったみたいなんだけど」
『ホームアローン』や『ゴーストバスターズ』『アダムスファミリー』『ネバーエンディングストーリー』などのちょっと昔の洋画や、『それでも僕はやってない』『相棒シリーズ』『美しい罠』など、比較的最近の邦画やドラマもある。アニメやお笑いも何枚かあって、彼女はその中から一枚を取り出した。
「なんやこれ? ホラー?」
パッケージはほとんど真っ黒で、タイトルと出演者が写っているだけだった。
「ううん。最近慈愛の好きなお笑いの人のDVD」
……何故お笑いのDVDに『*このDVDには一部過激な内容や表現が収録されています。あらかじめご了承下さい。』なんて但し書きが書かれているんだろうか。中身を抜き取られているということは、お気に入りの一枚として持っていったのか? これを?
「よく物真似させられたのよ。似てるからって」
「へー。どんなんなん?」
――彼女の態度が豹変したのは、その言葉のせいだった。目を見開き無表情に火口を見下ろす。まるで何かの精神病患者のようだ。
「ふっふー♪」
かと思ったら急に飛びきりの笑顔で手を羽根のようにふわふわさせる。……その芸人の芸風をようやく思い出した。
「ヤめろハナせ!!」
触ってません虚空に向かって話しかけるのはやめてくださいうわそのままネタ行っためっちゃ似てるやばいマジでそっくりさんになれそうと思ったらこっくりさんやり始めたこれネタ?ネタやんな本当に似てるわすげーアハハハハハハ!!
「アハ、アハハストップ、ちょ、戻ってきてやーハハハハ!!!」
そんな場合ではないのだが、あまりの崩れっぷりに爆笑してしまう。観察眼と洞察力と演技力の壮大なる無駄使いだ。
いきなり素の彼女に戻る。変化は唐突だ。
「この物真似、慈愛が好きでね」
「アハ、いや、上手いわー。凄いな、演劇部エースは健在や」
まだ腹が痛い。
ちょっと思い付く。
「他にも出来んか?」
それは、少しでも気が紛れたらと、火口なりの気遣いだった。
彼女は無遠慮さに気付きながら、それでも無駄にはしなかった。悪戯っぽく笑いながら。
「例えば?」
「ほら、あの……」
――時間潰しはもう少し、続く。
「……本当、何処に行ったのかしらね」
夢中で気を紛らわせようとする火口は、呟きに気付かない。その為……
「待ってるわよ、慈愛」
小さな呟きは、母親以外には、聴こえなかった。